2005年の8月、私は『UNloved』や『ぬるぬる燗々』、後に『LOFT』『叫』で知られる名キャメラマン芦澤明子さんと共に、『キャメラマン 玉井正夫』という作品を完成させた。この作品は、2005年8月20日にフィルムセンターで行われた成瀬巳喜男生誕100年記念シンポジウムで上映され、その年の秋に行われた三重映画フェスティバルの成瀬巳喜男小特集において『晩菊』と共に上映された後、フランスで発売された『めし』『浮雲』『鰯雲』から成る、成瀬巳喜男DVD-BOXに収録された。
 「名工の眼」とは、日本語の『キャメラマン 玉井正夫』という、あまりに素っ気のないタイトルに閉口したフランスの友人がつけてくれた、別のタイトルである。実は、『キャメラマン 玉井正夫』の制作意図は(それは、私と芦澤明子キャメラマンの意図である)、成瀬巳喜男の名キャメラマンとして知られる玉井正夫氏の、思わず「職人的」とも形容したくなる、スタジオ全盛時代、1950年代の見事な仕事の手さばきを確認することと共に、氏がいかに、1920年代のアヴァンギャルドの空気を存分に吸った、ボリス・カウフマンやオイゲン・シュフタンなどとも比較しうる、真にヌーベル・ヴァーグ的なキャメラマンであったかということの、ほんの一端でも紹介できればと思い、制作された。その意味で、この「名工の眼」という別のタイトルは、この作品の制作意図の一面しか捉えていないのかもしれない。
 以下は、えっちらおっちらと、二年前の夏のことを思い出しながら、その制作の過程を書き起こそうとする試みである。

 1907年10月3日生まれの玉井正夫は、今年生誕100年を迎える。
2005年8月20日に生誕100年を迎えた、成瀬巳喜男に遅れること2年。成瀬巳喜男の生誕100年を2ヶ月後に控えた2年前の丁度今頃、私は故玉井正夫氏の家にいた。正確に言うと、玉井正夫氏が60年近い年月を過ごし、1997年に亡くなってからの8年間を、残された夫人が息子と共に暮らす家にいた、ということになる。
 それから遡ること更に2ヶ月。2005年の5月初旬。玉井正夫氏のご長男ご自身が経営される西麻布にあるバーにおいて、恐る恐る私は、玉井正夫さんのドキュメンタリーをぜひとも制作したい、という意向を伝えた。極度の緊張から杯を重ねるアルコールのため、今から思えば軽い躁状態であったであろう、必死に玉井正夫氏の成し遂げられた仕事に対する思いを語る私の話を聞き終えると、現在はフォトグラファーとして活躍される故人のご子息は、
「わかりました。作品の完成を楽しみにしています。もしお望みであれば、うちのおふくろに話を聞いてみてもいいですよ」
と、いつもの3倍のスピードで杯を重ねる私のグラスに、5杯目のウオッカ・トニックを注ぎ足しながら、誠実な態度で提言してくれた。
 翌日、早速私はご子息に電話をし、故玉井正夫夫人に謁見するための算段をつけていただくと、その翌週には成城にあるご自宅へ伺うことになる。ご子息の承諾を得ることはできたものの、ご夫人の承諾が得られるかどうかは、予断を許さない状況にあった。加えて私は、玉井正夫氏のドキュメンタリーを作るのであれば、ぜひともご夫人から話を伺いたいと、熱烈に感じていたのである。
 1940年の結婚当時からお住まいになっているという、故玉井正夫氏のご自宅は、成瀬巳喜男の自宅とは最寄駅を挟んで丁度反対側に位置する。成瀬巳喜男と玉井正夫の仕事場であった東宝砧スタジオからは、歩いて15分ほどの距離である。玉井正夫氏は、成瀬巳喜男の現場中も、毎日夜7時にはご自宅で食事を取られていたようだ。晩酌は、ビール一本。食事を済ませると、すぐに2階の自分の部屋にひきあげられていたと、後に夫人から伺うことになる。
 成瀬巳喜男さんはこちらによくお越しになられたのですか、という私の質問に対し、
「おそらく、一度だけだったのではないかと思います」
と、関西訛りのエレガントな標準語で、夫人は答えられた。
 京都太秦の出身であるという玉井正夫夫人は、その時既に80才をゆうに越えられていたが、今でも週に1度はソシアル・ダンスのレッスンを受けているという。玉井正夫氏の存命中から始められたというソシアル・ダンスには、氏も何度か顔を見せたようだ。
「ただし、嫌々だったんじゃないでしょうか」
と、夫人はチャーミングな笑顔を見せながら、屈託なく仰られた。ソシアル・ダンスは夫人の大きな楽しみの一つであり、その後も、
「インタビューはいつでも構いませんが、ソシアル・ダンスの発表会の日にちだけはどうかお外し下さい」
と、大正生まれのモダン・ガールの面影を強く感じさせながら、まったく鼻につくところのない、これまたエレガントな答えで場を和ませてくれる、明るく闊達な方であった。
 寡黙なイメージで語られることの多い、東宝の名キャメラマン玉井正夫氏のご夫人が、彼女のような方であったということに、私はほのかな喜びを感じていたことを、ここに告白しておこうと思う。彼女とは今でもたまに、鳩居堂の葉書でやりとりをしている。
 企画の意図を説明し、玉井正夫氏の成された仕事に対する思いを一通りお話しした後、私は、ぜひとも氏のお墓参りに行かせていただきたい、と申し出た。実は、先のご子息との対話のなかでもその旨を申し出たのだが、ご子息からは「そこまでしてくれなくていいですよ」とやんわり断られていたのだ。玉井正夫キャメラマンと成瀬巳喜男が成された仕事の大ファンであるということ以外、何の脈絡もない、どこの馬の骨かもわからないような若造が、偉大なる先達のドキュメンタリー作品を作るのであるから、せめて玉井正夫氏本人の御墓前で自らその旨をご報告に上がりたい。そう思っての申し出であったのだが、もしそのことがご夫人始め、ご遺族の方のご迷惑にあたるのであれば、残念だがそのことは諦めよう。そう思いながら夫人の返事を待っていると、夫人は言葉よりも先にどこかへと向かい、何やら地図のようなものを持って来たかと思うと、やにわに、
「一人で行くには分かりづらい場所でございますから、私がお供いたします」
と、目を輝かせながら、驚くようなご返事を仰られた。慌てて私は、
「暑い中、お身体のこともありますし、そこまでご好意には甘えられません」
と申し出たのだが、
「今までも、ご主人のお話をお聞かせください、と来られた方は、テレビの方など何人もいましたが、主人のお墓参りをさせてください、と言ってくださる方は初めてです」
と、夫人は仰られる。
 実は、自分の祖母の墓参りすら、ろくろくしたことのない不遜の身であったのだが、小津安二郎の墓参りと、成瀬巳喜男の墓参りだけは欠かしたことのないことを心の拠り所に(思えば、私と芦澤明子キャメラマンが知り合うきっかけとなった、万田邦敏監督『う・み・め』のロケ場所が、成瀬巳喜男の菩提寺だったということは、何とも奇妙な縁であった。昼の休憩中、取るもの取らず成瀬巳喜男の墓へ向かうと、すでに芦澤さんがおられ、助手の方と二人線香を上げられていたことを、今も鮮明に憶えている)、祖母に対する後ろめたい気持ちにそっと目をつぶると、ご夫人のご好意を素直に受け取ることにした。翌週、うだる暑さの中、私は夫人と二人で、生田へと玉井正夫氏の墓参りに向かう。

(この稿続く)

プロフィール
佐藤央(さとう ひさし)
1978年大阪生まれ。2005年、講師である万田邦敏の推薦で、映画美学校6期フィクション高等科卒業制作として『女たち』を監督。同作品は2007年6月に行われた「映画美学校セレクション」にて上映される。卒業後、万田邦敏監督作品『う・み・め』の現場で知り合った、芦澤明子と共に、『キャメラマン 玉井正夫』を監督(2005)。同作品は、2005年8月、フィルムセンターで行われた「成瀬巳喜男生誕100年シンポジウム」にて上映される。2007年3月には、『夢十夜 海賊版』の「第八夜」を監督し、吉祥寺バウスシアターにてレイトショー公開される。近況は、5月に撮影された冨永昌敬監督最新作のメイキングを担当、現在編集中。
[2007.6.25]