『パラダイス・ナウ』
パレスチナの幼馴染の二人の青年が自爆攻撃に向かう過程を描いた、この映画は、パレスチナ人監督のハニ・アブ・アサドがイスラエル人のプロデューサーと一緒に、ヨーロッパ各国との共同製作という形で創り上げたものである。すでに、ゴールデン・グローブ賞を受賞し、第七八回アカデミー賞の外国語映画部門にノミネートもされた。
自爆攻撃に向かうと書いたが、その過程は一直線に進むわけではない。最初の計画は頓挫し、二人は離ればなれになってしまう。この一回、頓挫してからのサスペンス溢れる語りが素晴らしい。二人は一体、どうなってしまうのか? この辺りの物語の運び方は、監督の力量をはっきりと示すものであり、センセーショナルな話題に触れただけの映画ではないと実感させてくれる。
もちろん、映画はサスペンスに終始するわけではない。それまでは疑いもなく、自動的に自爆攻撃に向かうかに見えた二人が、その行為の是非をそれぞれ問い始めるのも、失敗してからなのだ。そこで問われていることのひとつに、「天国」という観念がある。死んだら天国に行けるということで、「天国」という観念が自爆という行為を支えている。
それに対し二人の知り合いの女性は、激しく言う。「天国はあなたの頭にしかないのよ!」
このような形而上学的な視点が、映画に政治を超えた奥行きを与えていると言える。とても、「パラダイス」(天国)とは言えない、パレスチナという現実を扱った映画に対し、それでも「パラダイス・ナウ」という題を与えたのも、同様の視点からなのだろうか。
監督は、どうしてこの映画を作ったのかという問に対して、「討論のきっかけを与え、見えざる者たちを見えるようにしたかったからだ」と答えている。この映画は見事にそれを実践している。我々は劇場に駆けつけて、この「見えざる者たち」を見に行くしかない。
『低開発の記憶』
本作は、アカデミー賞の外国映画賞にノミネートされた「苺とチョコレート」(1993)を監督したトマス・グティエレス・アレアが68年に制作した作品であり、今回、デジタル化を経て、初めての日本一般公開となったものだ。
革命後の61年から62年のキューバのハバナを舞台にした、この映画は「人民」の側というよりも、むしろ「革命」で打破されそうなブルジョワ階級の男性を主人公にしている。
豪華なマンションに住む彼は、親や別れた妻のようにキューバを離れることを選ばない。かといって、残る彼に特に目的があるわけでもない。映画は、その無為の生活を追い、特に十代の少女を誘惑して、少女の親に訴訟を起こされたりするエピソードは、その無為の滑稽さを証しているようだ。
だが、だからといって、この男性を映画がただ断罪しようとしているわけでもない。
結婚前の恋愛の挫折、少年期等を回想する主人公への視線は、むしろ暖かであるといっていい。この自己完結的なブルジョワの青年(38ではあるが)をただ裁くだけでなく、まるで調書を作成するかのように、彼の内部に迫ろうとするその姿勢が、この映画の魅力である。
もちろん、監督はこの男の生活が革命によって、変化し、崩壊していく様をも見逃していない。奪われる友人の屋敷。孤立。映画は、男の内部に向かおうとするのと同時に、外界の変化(政治変動)をも捉えることによって、男が送っていると信じている「プライベート」な生活が幻想であることをも示すことに成功していると言えるだろう。
かつて、ドキュメンタリー作家のジャン・ルーシュは、戦闘的な映画というものはすでに大義なりを確信した人に向けて作られるべきではなく、警官のような敵に向けて作られなければならないという意味のことを言った。この映画は、その意味で、ブルジョワに向けられたブルジョワの調書と呼べるかもしれない。
- プロフィール
- 木田貴裕(きだ たかひろ)
映画美学校フィクション科一期生。
青山真治監督の研究科ゼミに参加、「AA」等にスタッフとして参加させてもらう。
フィルムセンターに非常勤として働いたこともあり。
最近は、映画「闘茶」のメイキングで、台湾に行き、勝手に心の故郷だと思っている。