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2.23

『瞳をとじて』

エリセ31年ぶりの新作や!言うて、『ミツバチのささやき』(73年)や『エル・スール』(83年)は20年以上前にテレビデオのブラウン管で見て以来見直してないという酷い観客で、熱心な監督のファンかと問われれば結構微妙なんでだけど、それでも31年ぶりの新作や!と騒いで、ビクトル・エリセ監督『瞳をとじて』へ。
見ながらまず軽く驚いたのは、84歳の大巨匠監督の映画のわりに想像していたような巨匠感(重厚だったり哲学的だったり)がなかったこと。エリセオタクじゃなくても大丈夫だったと安心。
映画監督(ミゲル)の主人公はTV番組に協力したことをきっかけに、22年前『別れのまなざし』を撮影中行方不明になった主演俳優(フリオ)を探しだす。
映画内映画『別れのまなざし』の中でもフリオは依頼主の娘を探すことになり、その結末は最後にわかるのだが、これって『瞳をとじて』と『別れのまなざし』が同じ物語、人探しのもの物語だったってことでいいのよね。
ミゲルはエリセの分身であり、まるでエリセ自身が映画の中を生きているような錯覚すら起こし、ビクトル・エリセという映画監督の映画と人生の交錯とその切実さに感動しつつ、この映画にごろんと横たわる「老い」が今までの作品とはまったく違うものにしている気がした(過去作の記憶は曖昧やけど…)。監督も老いるしアナも老いる、映画だって老いる。
ただ、友人の映写技師が「彼(フリオ)が克服できなかったのは老いだ」とつぶやき、存在しない彼の姿までドラマチックにスクリーンに映したのに、フリオが消えた本当の理由が単なる脳障害だったという身も蓋もない話だったのはちょっと笑った(逆にもうちょっと笑いたかったかも)。
フィルムの時代を生きたおじいちゃんたちは、とにかく座る。色んなポジションですぐ座る。「人探ししてるわりには歩き回ったりしないな、やっぱり歳取ると立ち飲みとか無理だよね座りたいよねわかるよ」と深く共感しながら見ていたが、パンフレットで若手人気監督たちが座らせ方の演出とそれによって生じる意味について語っていて、思ってたんと違ったっぽい。