『四月になれば彼女は』
なんか最近映画好きのあいだで評判のいい映画しか見てないな映画グルメみたいで気持ち悪いな私と気づいたので、急いで川村元気の原作小説を映画化した山田智和監督『四月になれば彼女は』を見に行った。そして無事「クソ映画を見る」という目的は見事達成されたのだが、この映画、興行収入は10億近くになりそうだという。つまり、バカにできない数の人たちがこれを見るために劇場に足を運んでいるのである。サイモン&ガーファンクルは一度も流れないのに!(主題歌は藤井風)精神科医が患者に手を出すという超アウトな内容なのに!
日本映画にしばしば発生する謎ワード「川村元気」(ちなみに私とタメ)。彼は一体何者なのかーーー。
といって私は川村元気について熟考するほどもの好きでもないので、近くにいたもの好きな川村元気有識者に問うてみたところ、川村元気とは、シネフィルや映画好きのひとたちからすれば、評価・吟味・批判云々以前の「フルシカト」状態に置かれており、たまーに取り扱われても、近年の新海誠や是枝裕和の作品をプロデュースしたひと、程度の認識にとどまっているようだ(そしてそれもしょうがないことかもしれない。映画のプロデュースと監督以外にも、脚本家、広告・イベントの企画、小説家、絵本作家と翻訳(!)などなど、手広くやりすぎて実態がつかめないので。あるいは、それ以前に、過去に川村氏からいじめを受けた、財産を騙し取られた、故郷をの村を焼かれたなどの嫌われる理由があるのかもしれない…)。しかし、「近年の新海誠や是枝裕和の作品をプロデュースしたひと」という事実だけに注目したとしても、彼が現在の「日本映画」を考えるうえで避けては通ることができない人物であることは間違いないのではないだろうか。
『4月になれば彼女は』は、川村氏の小説を原作とした映画で、プロデューサーも監督も担当してはいないが(クレジットでは原作・脚本)、私は彼のまぎれもない最新作として見た。というのも、宣伝に登場しているのはほぼ川村氏で、監督は驚くほど前に出てこないし、実際に作品を見て、(彼の小説を映画化した)過去作品と比較してみると重要な共通点があるからだ。
彼の小説は未読だけど、映画化した4作品はすべて見ていて、それらに共通しているのは「もしも世界から◯◯が消えたら」というテーマである。
『もしも世界から猫が消えたなら』では命、『億男』ではお金、『百花』では記憶、そして本作『4月になれば』では恋愛感情が、主人公の前から唐突に消えてしまう。誰にとっても切実でありながら、しかし同時に浮薄なものでもある、見えないものと自己との関係を描くことが重要だ、という川村氏の姿勢は、本作における「私は、目には見えないけど、そこに確かに存在しているものを撮りたい」という森七菜クン演じるカメラ女子(…)の台詞に集約されているといっていいだろう。さらにいえば、それらの作品で共通して語られているのは、喪失感を抱えた人間たちが、「美しい自然」と曖昧に一体化することで、最終的に喪失感を克服するという疎外―回復の物語、というものなのだ。
すこし具体的にいえば、『四月になれば』では、ウユニ・プラハ・アイスランドといった「世界の観光名所」でロケが行われている。そこで撮影された映像には、たとえば、新海誠作品の特徴のひとつとして挙げられる「実写のように美しい」とも評される緻密なアニメーションによる風景を逆に(?)実写化しましたとでもいうような、まるで「世界の果て」のような風景が広がっているのだ。しかしその壮大さ(?)の一方で、登場人物に起こるのは、過去の恋愛=元カレを思いだすことであり、その気持ちを綴った手紙の内容が、「世界の果て」のような風景にモノローグで重ね合わされるという演出がされている。いいかえれば、ウユニ塩湖もプラハの街もアイスランドのレイキャビクも、不在の元カレに会うための、過去と現在をつなぐためのシンボリックな装置として使われていると考えるべきなのである。
映画批評家の安井豊作はこのような特徴をもった作品について、96年の時点で次のような指摘をしている。
<たとえば、メディア化された映画としてはさしたる違いのない岩井俊二の『Love Letter』と是枝裕和の『幻の光』という二本の作品がある。繊細な感性の持ち主たちは、この二本の作品をめぐって、あいもかわらず映画的であるか否かを論じている。彼あるいは彼らは気づかないのだろうか。岩井俊二や是枝裕和が、『眠る男』の小栗康平や『(ハル)』の森田芳光らとともに、あるいはほかのメディアでいえば、小林武史(ミスター・チルドレンのプロデューサー)や野島伸司(テレビ・ドラマ「高校教師」、「人間・失格」等の脚本家)らとともに、大がかりなシステムの内部で、「哀れで美しい日本」とでもいうべき日本回帰のイデオロギーを媒介し、流通させていることを。>
この指摘から約30年が経過した現在において、すでに岩井俊二、是枝裕和、小林武史たちと一緒に作品を作った川村氏は、「哀れで美しい日本=美化された自己像」を数多く世に送り出してしてきた彼らの正当な後継者として位置づけるべきだし、言うまでもなく新海誠もここに加えるべきだろう。岩井、是枝、新海、と個人だけでは繋がりが見えにくい現代日本映画を代表する人気監督たちが、「川村元気」の存在よって見事に繋がるのだ。すごくない?
さらには、具体名はいちいちあげないけれど、現在進行系で「哀れで美しい日本」を文学的・美学的に表象している若い監督や脚本家やミュージシャンたちは他にも多くいる。彼・彼女らはこのまま自覚/無自覚関係なく、川村元気キッズになってしまうのだろうか…。
ところで、『四月になれば…』を見たひとは(周囲には全くいないし今後も増えることはないと思うけど)、『花束みたいな恋をした』とセットで見る/考えることをお勧めする。坂元裕二が脚本を担当したこの作品は、一般的には「恋愛映画」として流通しているはずなのに、その実態は「どこにでもいる平凡な若い男女のドキュメンタリー」であり、「哀れで美しい日本」映画は、まさに彼や彼女(主人公たち)のような「恋愛の失われた世界」を生きる人たちに向けて作られている、コインの表と裏の関係にあるからだ。
蛇足、まだ映画化されていない川村氏の最新小説『神曲』は、宗教の信者や元信者など100人以上への取材をもとに書かれていて、「神の正体」がテーマになっているとのこと。