『パストライブス 再会』
予告を見て「キモい映画やな」と思っていたのに公開後絶賛の感想が私のタイムラインに次々と現れるのであれ予想が外れたのかなこれは見て確認しなければとセリーヌ・ソン監督『パストライブス 再会』、実際見たら予告の10倍はキモかった。ここまで世間の評判と自分の感想がかけ離れたのは初めてかも、なので自分がなぜキモいと感じたのかちょっと考えてみた。
舞台は韓国、お互いが初恋の相手な小学生のふたり、しかし女が親の都合でアメリカに移住。はなればなれになったふたりが長い時を経て立派な大人になって(女はそのあいだにアメリカ人と結婚もして)NYでめぐり合う…。
まず、この男が韓国で恋人と別れたタイミングでNYまで彼女に会いに来る、冷静に考えたらめちゃくちゃ失礼でキモいことをしてるのになぜそう見えないのか。そしてあの、バーでアメリカ人の夫を蚊帳の外にしてふたりで韓国語で会話するシーン(しかも「もし僕たちがあのまま付き合ってたらどうなっていただろう…」みたいなきっしょい会話)なんか、なんのプレイやねん。夫に対して人としてこれ以上最低な態度があるか? としか私には思えなかったけど、他の人たちにとっては違ったっぽい。その人たちにはなぜこれが「かけがえのない愛の物語」に見えてしまうのか。
ここに、この映画が「初恋の美しさ」と「移民の現実/残酷さ」を強引に一体化させている巧妙さが見てとれる。彼女がアメリカという地で韓国系移民として生きていることと、初恋の記憶には何の関係もないのに、この映画全体が「哀れで美しい移民の初恋」物語になっているのだ。…そう、Twitterで検索してて気付いてしまった驚愕の事実、『パストライブス』と『四月になれば彼女は』の感想は、おもしろいくらいそっくり、タイトルを入れ替えられても気づかないほど同じ言葉を使って褒められているではないか。「切ない」「美しい愛」「刺さりまくった」「とにかく泣いた」「大切にしたい映画」「これは自分の物語」などなど。『四月〜』の日記の中で私は川村元気について「哀れで美しい日本=美化された自己像」を再生産していると指摘したけれど、この映画に感動した人たちには「哀れで美しい移民の初恋」の姿が美化された自己像として映るのだろう。みんな好っきゃなあ。
しかしこれがオスカーにノミネートされてるんだから、世界規模で観客を勘違いさせるのは、それはそれですごいことなのかもしれない…。