『敵』
枯れ専的には今まで「長塚京三はちょっと凛々し過ぎるかな〜」ってイメージだったんだけど、吉田大八監督『敵』の長塚様の姿は素晴らしかったですね。だからこの映画にもったいなかった。
前半、妻に先立たれた男やもめの77歳、引退したフランス文学大学教授が日本家屋で一人慎ましく暮らす。毎日決まった時間に起床し、魚を焼いたり焼き鳥を焼いたり蕎麦を茹でたり冷麺を作ったり、風呂に入ったり買い物に行ったり原稿を書いたり打ち合わせをしたり近所のバーに飲みに行ったり。モノクロ画面に映るその反復を見てるだけで絵になる長塚京三、麺の啜り方がかっこいいのよ(「こんなおじさん素敵…」と言いたいけれど、この存在自体が既にSFね)。
そんな彼の元を訪れる元教え子の妙齢の女性演じる原節子風の瀧内公美や、場の雰囲気を一瞬で自分のものにするバーで働く立教仏文生(この設定なんか笑った)の河合優実に対して平静を装いながら必死で下心を隠す元教授の姿は滑稽で笑えるし、そこで想定外の内視鏡や詐欺にあう些細な非日常までは面白く見てたのに、本格的に「敵」が映画の中に登場し出してからの後半マジで一気に眠気に襲われるほど退屈に。
「敵」の描写は凡庸、奴らが現れることで世界が混乱したり不穏になる様子が下手過ぎる(改めて黒沢清って凄いんだなと痛感)。筒井康隆の原作は未読だけど、やたらと「北から敵が来る」って言うのは単純に不快だった。これって何か特別な意味があるの?識者さん教えて。
なので全体的にはかなり残念な映画の印象だけど、長塚様には、せっかくこんなに素敵なんだからこれが代表作だなんて言わないで、もっと有能な監督とどんどん仕事してもっと映画で見てみたい。
ところで、私が見た回(平日の夕方)、客層がフィルムアーカイブやシネマヴェーラにいるタイプ(=シネフィル)のおじさんではない初老おじさん(=いわゆる一般の)ひとり客でほぼ満席だったんだけど、彼らはこの映画に何を期待してたのだろうか…。