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10.20

『石がある』

2024年秋のスタンダードサイズ日本映画三部作(これって偶然?) の〆は、太田達成監督『石がある』
 太田監督のことは存じ上げないけど、スタッフに友人知人が複数、主演を務める加納土さんの監督作『沈没家族』(17年)も大好きだし、信頼している映画監督や批評家たちの好意的なコメントからも多くの美点を持った作品であることは理解できるのだけど、それはそれ。
人気のない川辺の向こう岸から唐突に声をかけてきて、服を着たまま川を渡って近づいてくる図体のでかい見知らぬ男(加納土)を、若くてかわいい女の子(小川あん)が強く警戒しないことがとても不可解で、あまりにご都合主義的でしんどかった。とはいえ、公式ウェブサイトには「相手との 距離を慎重に測っていたが、いつしか二人は上流に向かって歩き出していた——」と書かれているので、思い返してみれば警戒する素振りぐらいはあったのかもしれないけど、そのあとひとりで立ち去ろうとする女の子の後を付いてくるとか完全にアウトでしょ。普通に怖いよ。しかしそんな不安をよそにふたりはそのあとも河原の石ころや落ちていた木の枝で無邪気に遊んだりして童心に戻ったような表情を見せたりするんですがね。
私としては、映されているものと映されていないものの緊張関係に思いを馳せたり石ころに対して想像の翼を羽ばたかせることもなく、最後まで好意的な鑑賞はできないままだった。残念。
ところで、『石がある』を見ながら思い出していたのは杉田協士監督の『彼方のうた』。その理由は、複数のスタッフ&キャストが被っているからでもあるけど(これは偶然じゃないよね?)、それだけではなく、どちらの作品も内容的には「もののあはれ」で、形式的にはミニマリスティックな、自然と人間が曖昧に融合した日本的な美を表象している静かな映画だから。その意味では、スタンダード・サイズ三部作には山中瑶子監督『ナミビアの砂漠』ではなく奥山大史監督『ぼくのお日さま』を加えて——『彼方のうた』『ぼくのお日さま』『石がある』で――「2024年版:哀れで美しい日本映画三部作」として考えるべきでした。そして、彼らが全員「男性監督」であることをあなたは偶然だといえますか?

ヴェンダースは「写真は『被写体』と『撮影者の〈欲望〉』を同時に写しだすもの」だといっていた(大意)。

いうまでもなくこの発言は、写真を映画に、撮影者を映画監督に置きかえることが可能である。その上でこの発言に従えば、映画監督=彼らが〈欲望〉して〈実現〉しているのは、私たちが生きるこの〈現実〉よりも美しくて――ほどほどに残酷でありながらも――優しいもうひとつの〈現実〉=哀れで美しい日本=美化された自己像なのだ。いいかえれば、「日本」という他者を不透明な存在として表象するのではなく、彼らの願望――こうなったらいいな――がスクリーンに投影されているのである。各々の作品の映画的な達成度やディティールの違いなどさしたる問題ではない。彼らが「日本」という自己に対する批判意識を欠いたまま、たとえばヨーロッパの人たちが昔から好むような洗練された美しい「日本」のイメージを”慎ましい”スタンダード画面に反復させていること、こちらのほうが〈問題〉なのだ。とはいえ、この〈問題〉の根の深さは、彼らひとりひとりの資質や個性にだけ還元できるものではない。なぜならば、1996年には、映画監督の青山真治、小説家の阿部和重、批評家の安井豊によって行われた当時の日本映画についての座談会で、主には是枝裕和監督『幻の光』と岩井俊二監督『Love Letter』が、「哀れで美しい日本映画」を代表する作品としてすでに批判されているからだ。座談会で安井は次のように言っている。

「彼らが大切にしているのは、古典的なカテゴリーで言えば、〈真・善・美〉の三つのうちの〈美〉、あるいは〈知・情・意〉の〈情〉の部分でしょ。美的なもの、感情的なものを強調することによって、実は〈真・知〉や〈善・意〉が回避されている。逆に言えば、知性と道徳、あるいは倫理が、彼らの作品に欠けているということになる」

この批判は「2024年版:哀れで美しい日本映画三部作」にもそのまま当てはまる。念のために付け加えておくと、彼らの作品が反知性的であったり反倫理的であるということではない。美的なものを中心に置くことで、知性と道徳、あるいは倫理をめぐる「問い」を正面から扱うことを積極的に避けている=迂回しているということだ。そして避けたものが欠けていることは――常識的に考えて――あたりまえのつまらない事実でしかない。ともあれここで重要なのは、座談会から約30年が経過した現在においても「哀れで美しい日本」を美学的・文学的に表象する流れは衰えるどころか、もはや主流となって新しい世代=支流を産んでいるということだ。さらにいえば、彼らが認識している自らの「個性」は、大がかりなシステムの内部で「哀れで美しい日本」を流通させている川村元気たち(24年4月19日の日記)の小さなバージョンでしかない――そしてこの”格差”が彼らをさらにミニマリズム的な洗練へと向かわせるという循環構造になっている――のである。
最後に、私は山中監督の『ナミビアの砂漠』を「哀れで美しい日本映画」ではないと書いた。上記の座談会で安井は、青山真治『Helpless』を〈真・知〉に、北野武『キッズ・リターン』を〈善・意〉に分類しているが、『ナミビアの砂漠』はどちらかといえば〈善・意〉に分類するべき〈倫理〉についての作品である。彼らと同じスタンダード画面が採用されている『ナミビアの砂漠』のスクリーンに〈実現〉されている〈現実〉では、伝えるべきことは伝えるし、批判すべきことは批判する、直接的で単純な態度に標準が合わされている。
そしてその態度は、美的な情緒を重んじる感性の持ち主である男性監督たちへの鋭い批判になっていると私は考えている。

蛇足

私は杉田監督とは古い付き合いなのだけれど、忖度抜きで長編デビュー作『ひとつの歌』を安井とともに高く評価していた。頼まれてもいないのに杉田とスタッフたちへのインタビューを載せたフリーペーパーまで自腹で作ったのだ。そして『ひとつの歌』への評価はいまでも変わらないままだ。ごく簡潔にいえば、『ひとつの歌』は〈真・善・美〉への分類を拒絶するぶっきらぼうな凶暴さと、私たちが〈現実〉を生きていくうえで避けては通ることができない切実な「問い」を併せもつ「不気味」な作品なのである。2作目の長編作『ひかりの歌』では純度の上がった「優しい世界」に違和感を感じつつも、その正体について深く考えることはしなかった。おそらくは『ひとつの歌』に宿っている可能性を信じていたからなのだが(そしてそれはまだ生きている)、思い返してみれば『ひかりの歌』で掴んだある種の達成感=「答え」から――自覚/無自覚は関係なく――日本的な美の洗練に向かったのではないか、というのが今の仮説である。