2005年

寄り道、姫路ドキュメンタリー その1

ここで、『河の恋人』から少し離れた話をしようと思う。

恩師と呼べるほどの関係も持てず、けれど、その出会ってからの2年という短い時間の中で、大きな影響を受けた、劇作家であり、教育者であった如月小春さんが他界されてから、5年近くの歳月が過ぎた。

立教大学で、教育学科専攻科目、「教育と表現」という講義を受けていた。
如月さんが、その講義の中で、「こどもの館」という場所の話をした。
兵庫県姫路市の山中にある、大型児童館。
ビデオを見た。
中高生の子どもたちと、中年のおじさんおばさんたちが、肩を組んで歌っている姿が映っていた。
夜、野外の舞台だった。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を元にした舞台であるらしかった。
舞台と客席の間に横たわる水場に、おじさんたちがなだれ込み、歌い、それを見た子どもたちも、笑い、歌い続けていた。

その舞台が行われたのは、阪神淡路大震災が起きた年だった。
如月さんは、その5年前から、毎年の夏、姫路のこどもの館に通い、15日間のワークショップを通じて、地元の子どもたちと一緒に野外移動劇を創り出す活動を続けていた。
「地震発生から二週間ほどたって、ようやく全員無事と知り、ほっと一安心。けれど、被災地の状況を思うと、胸は痛むばかりであった。それと同時に、今年は芝居は出来ないかもしれないとも思った。兵庫県には文化事業を行うような財産的余裕はないのではないか。また、世間の空気も、自粛ムードにおおわれていて、〝こんな時に芝居なんて言ってる場合じゃないだろう〟などと言う声もあった。けれど、私は、出来ることならやりたかった。五年目の最終年度だからというのではなく、子どもたちのために、今こそ子どもたちの元気な声を必要としている大人たちのために、いつも以上に楽しいことがやりたかった」(1995 晩成書房 如月小春著 『八月のこどもたち』)

『ぼくたちの銀河鉄道』と題された舞台。
原作中、ジョバンニは、沈んだタイタニック号で命を落とした二人の兄妹に出会う。悩み抜いた末に、如月さんはその下りを、震災によって崩れた家屋の中で命を落とした兄妹の設定に変えたのだと言う。

教室の中で、そのビデオを見ていた。
見終わる頃、隣の席の学生の様子がおかしいことに気づいた。
息づかいが荒い。
それに気づいた、他の学生と共に、如月さんに「すいません」と声をかけた。
講義が中断される。
如月さんは、何も言わずに、彼女の体を支えると、背中をゆっくりと擦りながら、誰かあったかいお茶を持ってきてくれないかと言った。食堂から運ばれたコップ一杯のお茶を彼女に与えながら、如月さんは、黙って、過呼吸を起こしている彼女の体を、ずっと支えていた。
誰も何も口に出来なかった。
そのまま講義は終えた。

講義後、彼女はゆっくりと語り出した。
自分は兵庫の出身であること。
自分の中で、震災という出来事は、もう整理されているだろうと思い込んでいたこと。
あのビデオを見て、自分がこんな状態になるなど思いもしなかったこと。
自分と同様に震災に遭った人たちが、あんなにも楽しそうに、舞台で歌い、踊っている姿、震災という出来事を正面から言葉にしている姿を見て、自分もこんな場所にいたかったと思ったこと。

2年間受けた講義の中で、如月さんが伝えてきた、最も印象に残った話の一つがある。
この話を、如月さんは、自身が立ち会っていない場所でのこと、ある人から聞いた話であると、前置きして続けた。
ここに書くのは、だから又聞きの又聞きによるものということになる。
震災の後、最も被害の大きかった町の一つである伊丹市の、ある劇場において、地元の子どもたちを集めた舞台が催された。
あるひとりの暗黒舞踏家が、子どもたちの前で、踊る。
暗黒舞踏は、人間の生活の中に現れてくる、飢え、病い、苦しみなどを体現していく舞踏である。
うねうねと、体を折り曲げながら、子どもたちに迫って行く舞踏家。
最初こそ、じっとその姿を見ていた子どもたち。
が、突然、ひとりの男の子が立ち上がり、その舞台の直前に受けていたワークショップで作っていた木工作品の棒を手に持ち、泣きじゃくりながら、舞踏家に向かって行く。
そして、彼を、殴り始めた。
それを見た他の子どもたちも、みな、堰を切ったように泣き声を上げながら、一斉に男に向かい、男の手と言わず、足と言わず、その手に持った棒で、殴り始めた。
男は、その行為から、逃れることもせず、止めさせもせず、その暴力を受け入れ、その殴られていることをも、自身の踊りに組み込み、手を折り曲げ、足を折り曲げ、踊り続けた。
殴るだけ殴ると、子どもたちは、徐々に、その手を止めていた。
次第に、その男の、縮んだり伸び上がったりするうねうねした踊りを真似するかのように、一緒に踊り始めていた。
気がつけば、会場内の子どもたちが、みな、その舞踏家と一緒に、楽しそうに踊っていたのだと言う。その間、40分ほどの時間。

世田谷パブリックシアターの教育事業として、如月さんが指揮を執られた、中学生を対象とした演劇ワークショップ、その活動で創られた舞台を、誘われて見に行った。
題材は『星の王子さま』だった。
子どもたちが演じる『星の王子さま』。
読み手に何かを諭すようなこの原作を、昔から好きになれず、一抹の不安を持って足を運んだ。
が、見ると、楽しくて仕方ない。
場面ごとに現れる、星の王子さまたち。
そこに参加した中学生の殆どが、他の役と掛け持ちで、主役を替わりばんこに演じていた。
後で知ったことだが、自分がやりたい役をみんなやる、というルールのもとに作られたらしかった。
みな、思い思いの衣裳を身にまとっていた。
原作の挿絵にあるような姿をした王子さまは、一人としていなかった。
それぞれの勝手気侭な王子さまだった。
何が何だか分からないが、楽しくてずっと笑ってしまう。
完全にその子であり続ける一人の女の子が演じる、バラのたどたどしい言葉を聞きながら、知らずに涙がにじんでいた。

いつも、大学での講義後、話しかけに行ったりもせず、学生としての一定の距離を如月さんに置いていた。
舞台が終え、劇場から去ろうとしたところを、如月さんに呼び止められる。
杉田くん、見に来たんだ。そうそう、今回のワークショップのスタッフとして、杉田くんを誘おうかどうか迷ってたんだよ。
名前を覚えられているとは思わなかった。
嬉しかった。
来年もあるなら、ぜひ、参加させて下さいと伝えた。

如月さんの講義はその後も受け続けた。
半年後、世田谷パブリックシアターにおける、第二回 中学生のためのワークショップ「演劇百貨店 ようこそいらっしゃいませ」の打ち合せが始まった。 スタッフとして、参加した。
如月さんは、自ら企画した、東京における「アジア女性演劇会議」を実現させるために、フィリピンなど、アジア各国を飛び回り、立教大学や慶応大学での講義をこなし、自らの新作の構想を進め、忙しくしていた。そして、また、如月さんには、幼稚園(保育園だったか、記憶が定かでない)に通う、幼い娘さんがいた。全て、子育てをしながらの活動だった。
2000年11月。
如月さんの講義。
自分があなたたちくらいの年齢の時に、どんなことを考えていたかを知ってもらってもいいかもしれない、と、如月さんが二十代半ばで創り上げた『家、世の果ての......』の戯曲が配られ、学生みんなで読み、演じていた。
二コマ続きの如月さんの講義。
間の休み時間に、如月さんは倒れた。
救急車で運ばれて行った。
事務局の人が、次の講義は休講にすると告げにきた。
いつもの貧血だろうと思った。
学生はみなざわつき、不安そうに狼狽えている。
その空気を何とかしたく、よし、みんな呑みに行こうと、どういうわけか言い出していた。

如月さんは、意識を失っていた。
学生の有志たちが、病院にお見舞いに行っていた。
行く気になれなかった。
12月。
如月さんが他界した。44歳だった。
三鷹駅の北口に看板を持って立ち、葬式の手伝いをした。
1週間後、もともと予定されていた、演劇百貨店の打ち合せがパブリックシアターで行われた。打ち合せは中止になると思っていた。
如月小春ありきのプロジェクトではあるけれど、このワークショップは中止せずに続けると、劇場側が決断をしていた。
代わりの指揮は、如月さんの一番若いお弟子さんであった柏木陽さんが執ることとなった。
如月さんによって集められた、立教大学、東京大学大学院の教育学専攻の学生たち、桐朋学園短期大学の演劇専攻の学生たち、多摩美術大学の美術専攻の学生たち、それら15人近くの学生スタッフと、柏木さん。
テーブルを囲んだ。
柏木さんが最初に言った言葉を覚えている。
いやー、如月いなくなっちゃったねー、どうしようか。
みんな笑っていた。
去年の『星の王子さま』をやった子どもたちも来る。けれど、今年から来る子どもたちも同じくらいいる。その、如月を知らない子どもを置いてきぼりにしてはならない。今回のワークショップでは、如月の名前は一切出さない。
今回のワークショップ、及び、その最終日の発表会を、如月小春の追悼公演とはしない。
柏木さんが告げる。
如月が当初予定していた通りの、「シェイクスピアのドタバタ喜劇『真夏の夜の夢』 〜 子どもたち自身による勝手に書き換えヴァージョン」をやる。
めちゃくちゃ楽しい舞台にする。

2001年1月より、ワークショップが始まる。
子どもが言う。
(原作には全くそんな設定ないのだけれど)「お兄ちゃんは渡さない! っていう台詞をどうしても言いたい」
よし、じゃあ、その台詞が言えるような役とシーンを一緒に作ろうか。
「職人役の仕事として、麻薬密売人をやりたい。色んな種類の麻薬をトランクに詰めて売りさばいている人がいい」
そうか。うん。うーん。それで広げてみようか。
「役はまだ決まってないけど、どうしても自宅にあるドレスを着て舞台に立ちたい」
何とも言えないけど、それ、とりあえず家から持ってきて。
「(原作にもある、惚れ薬によって巻き起こる)四角関係の恋人同士のバトルをやりたい」
と言ってきた子が11人。よし、数合わせで子どもたちの中に大人スタッフを一人紛れ込ませて、みんなで十二角関係の修羅場を作ろう。
気がつくと、十二人の恋人たちの背中には大きなネジが付き、つまりは玩具の世界の話となり、侍やら赤ずきんやら『タイタニック』のジャックとローズやらが現れていた。
(スタッフのミーティングにて)「Hくん、60分の舞台の中で、よく考えたら「赤ずきん殿、好きでござる〜」しか台詞作ってないんだけれど、大丈夫なのだろうか」
本人、とても満足そうだから、それできっといいんだと思う。

書き出したらきりがないが、そうやって舞台は少しずつ作られていった。スタッフのミーティングは、子どもたちが午後4時に帰った後、毎日、終電近くまで続いた。
3月末、世田谷のシアタートラムにおいて、原型をとどめていないくらいの、シュールで、お客さんが引くくらいのエネルギーに溢れた『真夏の夜の夢』改め『真春の夜の夢』が発表された。春なのに、劇場の外には雪が降っていた。
発表を終えた後の、お客さんへの柏木さんの挨拶の中でも、如月さんの名前は一度も口にされなかった。
それに対して、もちろん批判の声は上がった。
けれど、分かっていた。
如月さんの「き」の字でも口にしようものなら、30歳という若さで、如月さんを失ったことを哀しんでいては成し遂げられないくらいの大役を任された、柏木さんが抑えてきた気持ちは、その瞬間に、どうしようもなく溢れ出してしまっていただろう。
そして、如月さんを慕っていた子どもたちも、また、泣き出してしまっただろう。ワークショップ中、突然、気づかれないように稽古場を離れ、誰にも見られない場所で泣いている子どもたちがいた。
泣き出した子どもたちの中で、如月さんを知らない子どもたちは、同じ時間を共有しながらも、共有し得ない何かがあることを感じて、その距離を感じてしまっていただろう。

その夏、兵庫県立こどもの館の意向で、こどもの館劇団による、如月小春追悼公演『ぼくたちの銀河鉄道』が再演された。

1年後の2002年の夏、こどもの館劇団は、柏木さんの指揮の元、新たに動き出す。
「東京から来ている私やNOISE(注 如月小春による演劇集団)はいわば外様である。外様はきっかけづくりをし、方法論を提示し、それが地域の人々によって運営されるようになるまでの、とりあえずの役割を担うものでありたいと、私は思った。五年間やって、そんな短い期間で理想が実現できるとは思わないが、少なくとも、ワークショップを卒業した子の中から、一人でも指導の側にまわれる子が出てくれば、そしてその子をサポートする地元の先生方や館のスタッフがいれば、この試みは新たな段階をむかえ、手を貸さずとも動き出すのではないか」(1995 晩成書房 如月小春著 『八月のこどもたち』)

現実には、こどもの館劇団が始まって10年間、如月さんが指揮を執り、如月さんが書き下ろした台本を元に野外移動劇を作るという、如月さんありきの活動が続いていた。けれど、中学生の時から通い続けている人が大人スタッフの側に回り、自主的に参加してくる地元の学校教職員の人たちなどの数は増え、如月さんが理想とした、「地域の人々への受け渡し」が実現できるような地盤は整いつつあった。
柏木さんが、その最後の仕上げを担うこととなった。
その試みの最初の年。
撮りに行こうと思った。
とても、個人的な思いだった。

映画美学校において監督した『月のある場所』という16ミリフィルムによる短編映画を完成させ、IMAGICAにおいて初号試写を終えた次の日、新幹線に乗って姫路に向かった。

(つづく)

[2005.9.12]