生田駅から専用の送迎バスに乗り、私たちは玉井正夫氏の眠る霊園へと向かった。初夏と呼ぶには少し早い6月の初旬であったと思うが、とにかく暑かったことをよく憶えている。日記などつけたこともなく、不精にも当時はスケジュール帳すら持っていなかったため(今でもスケジュール帳の有効な使い方がよくわからない)、正確な日付はわからない。ただ、5月26日の玉井正夫氏の8回目の命日を少しばかり過ぎた日であったことは確かだった。
実は、『キャメラマン 玉井正夫』の制作は、玉井夫人とお会いすることになる2005年6月上旬の段階で、すでに始まっていた。その一月ほど前の5月上旬、ゴールデンウィークの最中に成瀬巳喜男晩年の傑作である『女の中にいる他人』のキャメラマン、福沢康道さんへのインタビューを行っていたのである。福沢さんは、当時すでにお身体の具合があまり芳しくなかったのであるが、いざお話を伺うと、今でも心から尊敬しているという、内田吐夢戦前の傑作『土』や『限りなき前進』の名キャメラマン碧川道夫(みどりかわ みちお)の話を中心に、その碧川道夫が率先して組織したという、日本映画撮影技術者養成所(1942年開講)のお話などを昨日のことのように話された。この辺りのことは内藤誠『昭和映画ノート』(平凡社新書)に詳しい。その福沢さんも昨年お亡くなりになり、この作品のお披露目の場となった成瀬巳喜男生誕100年記念シンポジウムでの八面六臂の活躍が、最後の晴れの舞台となってしまった。
玉井正夫さんが最も仲良くされていたキャメラマンはどなたですか、という質問に、
「ええ、それは碧川道夫さんと三浦光雄さんです」
と、少しのためらいもなく夫人は仰られた。戦時中であった1940年のご結婚当時は別として、戦後になってご自宅を映画関係者が訪れることはほとんどなかったようだが、ご両名はよく玉井家を訪れていたようだ。福沢さん同様、故碧川道夫のことを話す夫人の顔も、輝きに満ちていたことを記しておこう。碧川氏は、当時のキャメラマン仲間、およびその周囲の人々から特別な存在として受け取られていたようで、夫人はとくに碧川夫人と懇意にしていたと仰った。お二人はソシアル・ダンス仲間だったと記憶している。
他方、玉井正夫キャメラマンの終生の友として、またライバルとしてあったのが五所平之助や豊田四郎との協力関係で知られるキャメラマン三浦光雄であった。翻ればご子息も、
「小さい頃、三浦さんによく頭をなでられらたことを憶えてますよ」
と、いとも平然と仰っており、あの三浦光雄に頭をなでられたのですか、と思わず椅子からずり落ちそうになるのを必死で堪えながら、私は5杯目のウオッカ・トニックでなんとか平静を装った。三浦光雄とは、私にとって、五所平之助や豊田四郎とのコラボレーションで名高いキャメラマンというよりも、何より成瀬巳喜男『女人哀愁』のキャメラマンとして深く心に刻まれている名前である(もちろん五所、豊田両監督との仕事も素晴らしく、とりわけ『夫婦善哉』での伊藤熹朔の驚くべき美術を存分に生かしきったキャメラワークには驚嘆した!)。
1956年に三浦光雄が54歳の若さで亡くなると、故三浦光雄の業績を讃えることと、「優れた撮影技術を示した劇場用映画の新人撮影監督を顕彰する」ことを目的とした「三浦賞」が設立される。玉井正夫氏は三浦賞の設立のため、先頭にたって奔走されたようだ。画面の中の明暗のコントラストを柔らかくつけていく、いわゆる「軟調」のキャメラマンとして、当時のキャメラマン仲間からも第一級の評価を受けていた三浦光雄は、戦前の成瀬巳喜男の傑作『女人哀愁』や『禍福』、そして現存する最も古いプリントとされる『腰辨頑張れ』などの撮影を担当している。同じく軟調派で知られる玉井正夫は、戦後間もない1947年に撮影を開始した『白い野獣』において、初めて成瀬巳喜男と出会うこととなる。
成瀬巳喜男さんと玉井さんは戦前に面識はなかったのですか、と尋ねると、
「なかったと思います。戦後になってからじゃないでしょうか。とにかく、家では仕事の話をほとんどしない人でしたから」
と、うだる暑さの中ハンカチで汗を拭うと、夫人はホットコーヒーに口をつけながら、いつもの洒脱な関西訛りの標準語で答えられた。
「玉井さんもコーヒーはお好きだったのですか」
「ええ、お酒があまり飲めないものですからね、コーヒーとあとタバコ、タバコはもうちょっと、何してるのかな、と思って目をやったらね、ぷかーっと、よく吸っておりました」
墓参りを済ませた私たちは、休憩を兼ねて霊園の中にある蕎麦屋で昼食をとっていた。印象的だったのは、カラスがやってくるので食べ物を供えてはいけないらしく、変わりといっては何なんですがと、少し恥ずかしげに前置きをしながら、夫人がご墓前に飴を供えていたことだった。玉井さんはそんなに飴がお好きだったのですか、と伺うと、
「いえね、亡くなる前あたりでしょうか、私がタバコ止めたらわと言ったら、タバコを止めましてね。そうすると口が寂しいのですね。それからはことあるごとに、飴ないか?飴ないか?と言ってました」
と、夫人は笑顔で仰られた。
映画100年の歴史を、おばあさん3人分の時間の長さになぞらえたジャン=リュック・ゴダールならずとも、私にとって、2005年のこの年に玉井正夫のドキュメンタリー映画を作るということは、映画110年の歴史のうち、祖父母たちが歩んできた80数年の歴史に孫の世代から介入していくということであった。この意味において玉井正夫氏は、日本映画の第二世代にあたるといっていい(玉井さんは、小津安二郎や山中貞雄などと同じく、自らに先行する映画を浴びるように見た上で、映画界に入られた最初の世代の一人だ)。実際私は、玉井正夫氏のお孫さんと全く同じ年齢だと、生田駅への帰りのバスの中で夫人から聞かされた。日本映画の歴史すべてを語るためには、まだおばあさんが一人足りない。
1907年に大阪で生まれた玉井正夫氏は、1923年、16歳で大阪の帝国キネマ小坂撮影所に入社している。戸籍上は愛媛県生まれになっているようであるが、夫人の話によると、戸籍が愛媛になっているだけで、実際は大阪に来てから生まれたはずではないかとのことである(とはいえ大抵の文献には、愛媛県松山生まれ、と記されている)。
成瀬巳喜男にしろ、15歳であった1920年、松竹蒲田撮影所に小道具係で入社しているのであるから、当時としてこの若さ自体はさほど驚くべきことではないのであろうが、早くにご両親を亡くし、若くして身寄りが妹さんだけであったこともあり、玉井さんは、20歳で市川右太衛門プロのキャメラマンとして早々と一本立ちを果たすと、できてはつぶれを繰り返す群雄割拠時代の撮影所を転々としながら、京都洛西に設立されたJ・Oスタジオへの移籍を経て、1937年、成瀬巳喜男のP・C・LとJ・Oによる合併に伴い誕生した東宝京都撮影所に、30歳で入社する(成瀬は東京の砧撮影所在籍)。この当時で既に撮影本数40本を誇る、キャリア14年のベテランであるのだから、恐ろしい。
東宝入社後は、右太プロ時代からの盟友である中川信夫(中川信夫とは計6本の作品で組んでいる!)や新人今井正のデビュー作など数本の劇映画の撮影を担当したのち、東宝砧撮影所にある文化映画部への移籍に伴い上京。戦争が激化するまでの数年間を文化映画の撮影に従事する。
1941年以降、戦時中は新設された東宝航空資料部室長の職につき、軍から要請された教育映画の撮影にあたった。この時体験した、爆撃機に小型キャメラを据えて乗り込み、ほとんど失神しながら地上すれすれまで急降下しつつ行った撮影のことを「最もショックな撮影」で「二度とやりたくはなかった」という感想とともに、後に玉井さんは述懐している。
この当時玉井さんは、夫人とすでにご結婚なされていたのだが、このような激務にあたっている素振りなど、家庭ではおくびにも感じさせなかったようだ。戦時中も物質などが不足することは余りなく、家の中は終止平穏だったと夫人は仰っていた。
この時代の玉井さんのイメージは、この小さな短編映画を作るにあたって、私にはとても有益であった。戦闘服を着て、小型キャメラとともに爆撃機に乗り込む玉井さんの写真がご自宅に残っているのであるが、そのイメージは、これまで玉井正夫を「成瀬巳喜男のキャメラマン」としてのみ捉えていた私には、とても想像がつかないものであった。
戦後、40代の10年間を成瀬巳喜男との充実した仕事に費やすと(10年間で16本!組んでいる)、玉井さんは、60歳で現役のキャメラマンとしての仕事を終え、晩年は機材屋を開いて後進の指導を行いながら、時折好きな建築に関する記録映画を撮影するなど、明日がどうなるかもわからない浮き沈みの多い映画界を、戦前・戦中・戦後と自らの腕一本だけで実に巧みに生き抜いた方であった。
「なにも持ってこなくていいから身一つで来てくれと言うのでね、私ものんきなもので、ほんとに身一つで東京へ行きましたらね、ああ、身一つとはこのことかと、ほんとに思いました。家から家具から何から全部揃っていましてね。全部主人が揃えてくれていました」
これは後に、夫人にインタビューした際に伺った話である。もはや戦時中であった1940年、夫人は京都の知人を介して東宝文化映画部在籍中の玉井正夫氏と見合いをし、幾分の逡巡があったものの、速やかに結婚が決まったという。結婚が決まると、玉井さんは東京--京都間を足しげく行き来しながら準備に努め、結婚式は京都で親族だけを集めて密やかに行われたようだ。この時夫人はまだ20歳を少し超えたばかりである。
「映画は好きでよく見てましたけれど、実際に映画の世界の人たちがどんな方なのかまったくわかりませんでしたが、祖父母が東宝の重役さん始め、周囲の方々にいろいろ聞いてみましたところ、あんな誠実な男は映画の世界では珍しいと、皆おっしゃいますし、私も、男前だし、この人ならいいな、と思って決めました」
と、馴れ初めを伺う私に、当時の面影を偲ばせるおきゃんな笑顔を見せながら、夫人は屈託なく答えてくれた。
(この稿続く)
付記 機材屋時代の玉井さんの話は、WEBマガジン「FLOWER WILD」にまもなく掲載予定の芦澤明子インタビューで詳しく語られている。芦澤さんも玉井さんの機材屋に出入りしていた若い後進の一人だったのだ。