去る11月3〜5日の間、神戸映画資料館において『キャメラマン 玉井正夫』が上映された。併映作品は1950年代の溝口健二を支えたことで名高いキャメラマン宮川一夫と淀川長治との対談を主として構成された『映画の天使』であり、成瀬巳喜男の1950年代を支えたキャメラマンである玉井さんを扱った本作との二本立ては、制作された動機、時期、作品のスタイルなどまったく異なる作品同士であるとはいえ、二本を並べ見ると、とても感慨深いものを感じる上映だった。
 宮川一夫と玉井さんはほぼ同世代であり(宮川一夫は1908年生まれであり、玉井さんは1907年生まれ)、映画界に足を踏み入れた時期もそう変わらない(宮川一夫は1926年、玉井さんは1924年)。ともに京都を中心とする関西圏でキャメラマンとしての腕を磨き、40代を超えた頃より溝口健二や成瀬巳喜男の偉大な作品群の「最初の観客」として、ファインダーを覗き続けることになる偉大なキャメラマンである。
 溝口健二も成瀬巳喜男も、彼らと組んでいた頃は、ただの一度もファインダーを覗かなかったという。これは凄いことだ。宮川一夫と組んでいた頃の溝口が、キャメラについてはまったく任せっきりであったことはつとに知られているが、玉井正夫と組んだ成瀬にしても、大まかなキャメラポジションについては指定するものの、アングルなどに関してはほぼ玉井さんに任せきりであったという(もっとも、長きに渡って玉井さんの助手につかれていた芦田勇さんによれば、ポジションさえも成瀬さんは決めなかったと仰っていた。ただし、私自身で成瀬巳喜男が実際に使用した『浮雲』撮影台本を確認したところ(ありがたや、ありがたや)、かなりラフなものであったとはいえ、1カットごとに全てのコンテが書かれていたことから察するに、キャメラポジションと大まかなサイズについては成瀬が指定していたように思う)。
 成瀬巳喜男のように「木綿のごとく繊細で」(玉井さん)細かなカット割りを演出の肝とする監督からすれば、サイズの出しひきやアングルの選択などは、その映画制作においてかなり重要な要素を占めることになるはずであり、それらをほぼ任せていたことからも成瀬巳喜男がいかに玉井正夫というキャメラマンを信頼していたかということが伺い知れる。
 玉井さんが成瀬巳喜男とコンビを組むことになる直後の1949年頃にお書きになられた文章に「映画の撮影」というものがある。この中で玉井さんは「絵画とは異なり、映画においては1つのカットが際立ってはいけない」ということを仰っているのであるが、これにさらに付け加えて「カットが繋がっていくことによって一つの動きとなるように撮影しなくてはいけない」とも仰っている。
 これに1937年の『雪崩』で助監督についていた黒澤明による「成瀬さんの映画はカットの切れ間がわからない」という言葉を並べてみると、二人が出会うまでに両者が育んできた映画観がいかに同質のものであったかがよく分かる。成瀬巳喜男と玉井正夫という不世出の監督とキャメラマンが作り上げた16本の作品群が得も言わぬ素晴らしさを携えているのには、彼らが出会うべきしくして出会ったという、歴史的な必然が作用している。それはまさに邂逅(めぐりあい)だ。
 『キャメラマン 玉井正夫』を制作中のある日、一通のメールが届いた。メールの日付を確認してみると、2005年6月24日とある。メールの送り主は、映画美学校時代の恩師である万田邦敏監督からで、件名は「お願い」と書いてあった。普段ほとんどメールのやりとりなどしない間柄なので(今でも)、珍しいこともあるもんだとドキドキしながらメールに目を通してみると、ジャーナリストでもあり万田さんのフランスの友人でもある青年が、この度(2006年)フランスで発売されることになった成瀬巳喜男のDVD-BOXに収録する特典映像の取材のため来日中であること、万田さんは『ありがとう』のクランクイン直前で神戸に撮影に行ってしまうため、変わりに相談にのってあげて欲しいということであった。
 私はこの時点ですでに、玉井さんについて自分なりに多くのことを調べていたつもりであったので、少しくらいなら何か力になれることはあるだろうと思い、西新宿のホテルに滞在中であるという、万田さんのフランスの友人(と素敵な日本人の奥さん)と早速コンタクトをとり、すぐさま会うこととなった。私が御茶ノ水(正確には湯島)に住んでいることに気を使ってくれて、フランスの友人と素敵な日本人の奥さんとは、御茶ノ水のエクセルシオール(ホテルではない)で面会した。
 当時まだ30代前半であったフランスの友人はとても色素の薄い青年で、そこがどこであろうとも、その場にすっと収まることのできるナチュラルな佇まいをもっていた。そばにいらした奥さんも小柄でかわいらしい方で、とても礼儀正しく、時にこちらが恐縮してしまうほどしっかりとした方であった(後に万田さんも「凄く礼儀正しい方で、なんだか恐縮してしまいますね」と笑顔で仰っていた)。少なくはない緊張を抱えて待ち合わせ場所に臨んだ私は、一見して二人のとても好ましい佇まいにすっかり気持ちが落ち着き、それからの数時間をとても和やかに過ごすことができた。
 彼らは成瀬巳喜男の他に五社英雄や稲垣浩、新藤兼人の取材も兼ねて来ており、サンプルが出来上がったばかりだという三隅研次のDVD-BOXをとても嬉しそうに見せてくれた。東映映画の大ファンだという彼は、五社英雄や工藤栄一のファンだといい、戦前の内田吐夢の話しで大変盛り上がったりもした。
 もちろん話の本題は成瀬巳喜男についてであったので、彼らの質問に対し、その時の自分が知っていることをなるべく誠実に答えていたら、フランスの友人も大変乗ってきてくれ、こと細かな技術の話や、玉井正夫がなぜ成瀬組を離れたのかといったワイドショー的な話にまで花が咲いた。
 一通りの話が済み、そうそうそういえば、と『キャメラマン 玉井正夫』の企画書をおずおずと渡したところ、これはあなたが監督するのか、イエス、この芦澤明子というのは『UNloved』のキャメラマンか、イエス、これはいつできるのか、夏にはできる、などと話は進み、果ては、わかった、ではこの作品を買おう、そしてあなたのインタビューを収録したい、とまで話は転がり進み、私は椅子から転げ落ちた。
 作品を買ってくれるのはありがたいが、しかしまだ肝心の作品はできていないのにそんなことをいって大丈夫か、ひょっとしたら作品ができあがらないかもしれないぞ、大丈夫だ、完成を楽しみにしている、ちょっと待て、作品のことはわかったが、インタビューは私は適任者ではない、日本には成瀬巳喜男のオーソリティが何人かいて、彼らは皆すばらしい人たちだから彼らから話を聞いた方が良いと思うが、大丈夫だ、あなたは若いのに(当時の私は26歳)成瀬巳喜男のような古い映画の話をとてもエネルギッシュに話される、そこがとても興味深い、だからあなたがいい、まあ、あくまでこの作品の監督としてなら話はできるかもしれないが・・・、それでいい、では12月にまた来るからその時にインタビューを撮影させてくれ、と一通りの話を終えて、彼らは次の勝プロの取材に向かっていった。
 御茶ノ水駅で彼らを見送った後、私は軽い躁状態の高揚と、深い虚脱感の狭間でぐったりしながら、これは大変なことになった、しかしこの作品にとっては大変ありがたいことだ、玉井さんの名に恥じないよう良い作品にしなければ、と決意を新たにした。
 それから話は少し飛び、その年(2005年)の冬、約束通りフランスの友人は素敵な日本人の奥さんとともに再び来日した。その時にはもう、彼らは「私の」フランスの友人となっていた。再会の喜びもつかの間、カメラの後ろにこそ立てど、カメラの前に立つなんてとんでもない私は、極度の緊張とともに、西新宿のホテルの一室ですでに完成された『キャメラマン 玉井正夫』の監督としてインタビューを受ける。なぜだか前日散髪に行き、刈り込みすぎた頭と冬のせいか少しむっちりした容姿で、緊張のあまり唇が少し引きつりながらも精一杯インタビュイーとしての努めをこなした。そう、とどのつまり、これがgojo日記2007年10月31日分で指摘されている「んーー」の全貌なのである。

(この稿続く)

[2007.11.14]