『キャメラマン 玉井正夫』の制作は、主に芦澤さんにその豊富な人脈を伝って玉井正夫氏にゆかりのあった方々にアポイントメントを取る役目を務めていただき、私は文献やスチール、フッテージなど資料の収集とそれらの読み込みと選択、現場でのインタビュー、構成と編集という役回りで行われた。
芦澤さんは実際の玉井正夫氏と交流があられたが、私は玉井さんが撮影された作品(それさえも全て見ることはできない)、書き記された文章(これは同時代の他のキャメラマンと比べて抜群に多いと思う)、玉井さんの写真や生前にインタビューされた記録と映像、玉井さんと交流があった方々の証言くらいしか触れられるものがない。当たり前のことであるが、実際の玉井正夫その人には触れることができないのだ。そのため調べれば調べるほど、頭ではよくわかるものの、玉井さんその人の存在は近くて遠くに感じられ、なかなか私自身との具体的な距離がつかめずにいた。玉井さんのご夫人との交流は、そんな私に故人玉井正夫との具体的な距離を与えてくれるものになりつつあったのだ。夫人と話をしたり、鳩居堂の葉書でやりとりをしているうちに、それは明確なものになっていったように思う。
もちろん、夫人から知り得たプライベートな玉井正夫の人となりをそのまま作品に投影できるかといえば、それは別の話だ。実際、出来上がった作品は、いろいろと考えを重ねた結果、できるだけ具体的な技術の話と成瀬巳喜男と出会う以前の玉井さんのキャリアを紹介すること、そして今回この作品のために知り得ることができた『大大阪観光』という、J・O時代の1936年に玉井さんがお撮りになった驚くべき観光映画を紹介することを三つの柱に据えることにした(この小さな素晴らしい観光映画については、後に詳しく触れるだろう)。しかし、実際の作品に直接反映されることはなくとも、これらの体験は私にとって真に重要なものとしてあった。
5月の上旬に福沢康道キャメラマンへのインタビューで始まったこの作品の制作は、確か6月だったと思うが、8月20日の成瀬巳喜男生誕100年シンポジウムでのお披露目が決まったため、実質3ヶ月の制作期間で行われた(20分という完成尺もこの時に決まった)。5月に福沢さんと照明の小嶋眞二さん、6月に撮影の芦田勇さんと美術の竹中和雄さん、7月上旬に玉井正夫夫人にインタビューを行い、7月下旬から8月上旬の2週間で本編集、MAはナレーション録りも含め、新井薬師にある小さなスタジオで1日で行われた。
「玉井さんはね、ファインダーを覗きながらこもこもなんか言ってるんだね、なに言ってるんだろと思って聞いてみたら、毎カット撮るごとにね、10個くらいだったかな、自分の中で確認事項を決めて、毎回確認してるんだね」
実際にファインダーを覗く素振りをされながら福沢さんが仰ったこのイメージが、この作品の制作にあたって最初に定着した「キャメラマン玉井正夫」のイメージだった。このイメージは、のちにこの作品を構成する上での基礎となるメインイメージへと発展していく。
谷口千吉『霧笛』などで撮影助手についた福沢さんを始め、私が直接、あるいは間接にでもお話を伺った方々は皆、現場での玉井さんはとてももの静かでジェントルだったと仰った(時にパン棒でポカンと叩くこともあったそうだが、それは決まって機材を粗末に扱う助手に対してであり、本当に稀なことだったと芦田勇さんは仰っていた。ちなみに芦澤さんは怒られたことはあっても、叩かれたことはなかったそうだ)。
玉井さんがファインダーを覗きながらこもこも呟いているイメージは、撮影現場においてつねに確実性を重んじる鉄壁のキャメラワークの秘密を垣間見せてくれるとともに、どことなく微笑ましくユーモラスな印象を与えてくれた。このユーモラスなイメージは、夫人からお話を伺うことによって知れた家庭での玉井さんのイメージとどこか一致しており、玉井さんの職人的な一面と家庭的な一面が混在した、とても強いイメージとして作品に定着することになる。
「玉井さんから教わった一番のことは、キャメラで映画の中の季節をしっかり描くということです」
玉井正夫キャメラマンから一番学んだことはなんですか、という問いに対し、『秀子の車掌さん』で早くして成瀬組の助手につき(キャメラは東健)、『浮雲』など多くの作品で玉井さんの助手についた芦田勇さんは、澱みのないしっかりとした口調で仰った。山本嘉次郎や佐分利信の監督作品でキャメラを担当したこともある芦田さんは、玉井さんと同じく戦前を京都で過ごすと、戦中東宝への移籍とともに航空資料部在籍中の玉井さんと出会い、晩年まで家族ぐるみでお付き合いされることとなる。夫人はもと東宝の女優で、『浮雲』で森雅之を相手に米を研ぐ女といえばピンと来る人もいるだろう。
芦田さんは、玉井さんからいただいたというツイードのジャケットを幾度となくとても嬉しそうに私たちに見せてくれた。引退後、喫茶店を開いていたという芦田さんの奥さんがお入れくださったブレンドコーヒーの豊かな香りの記憶と共に、ここに記しておきたい。コーヒー嫌いで知られる芦澤さんがお代わりしていたことも付け加えて。
「今から撮ろうとしているショットが、映画全体の中でどのような役割を果たしているのか、つねに考えながら撮影されていたところです」
同じ質問に対し、福沢さんはそう仰った。これは、事前に行われる妥協なき撮影設計の的確さのことを仰っているのであるが、そもそも玉井さんは日本映画に「撮影設計」という概念そのものを導入したキャメラマンの一人でもあった。
玉井正夫というキャメラマンは、自らの職務に忠実な一介のキャメラマンというだけではなく、もっとも早い時期に日本のキャメラマンたちの総体的な技術向上を図るため、京都─東京間でほとんど交流のなかった海千山千の強者キャメラマンたちを一本化すべく奔走した、実践的な活動家でもあったのだ(この辺りのことは「成瀬巳喜男とマキノ雅広 静と動の情動」所収の山口猛「監督にとっての運命のキャメラマン」から多大なる教授を受けた)。
玉井さんは、尊敬するキャメラマンとしてつねにジョージ・バーンズ(アルフレッド・ヒッチコック『レベッカ』など)の名前を挙げており、そのバーンズのもとでグレッグ・トーランドとともに助手につき、のちに『人情紙風船』のキャメラマンとして知られるハリー三村(三村明)の一時帰国(1931年)に伴って、日本映画にハリウッドの合理的な撮影手法を導入すべく、総勢数十名にわたるキャメラマンたちを京都に集結させたのだ。セシル・B・デミルのもとで修行したキャメラマン、ヘンリー小谷が黎明期の松竹に与えた影響も図り知れないが(『キャメラマンの映画史』碧川道夫の著述にくわしい)、ハワード・ヒューズ『地獄の天使』の空中撮影のB班を担当したというハリー三村が日本のキャメラマンたちに与えた影響もこれまた図り知れない。
ヘンリー小谷の弟子であった碧川道夫との交流や、この時の三村明との交流を経て、玉井さんは合理的な撮影設計の必要性を強く意識するようになったのだろう。のちの成瀬巳喜男との共同作業において「監督との事前の打ち合わせは一切なかった」というほど監督から信頼されていたのは、事前の撮影設計の段階で、演出を除く画面を構成する全ての要素の設計を組み立てておくという、キャメラマンとしての確固とした自信と責任があったからにほかならない。玉井さん自身が「成瀬のキャメラマンは若手には務まらない」とまで書くに至ったのには、しかるべき理由がある。
しかしそれにしても、なんと豊穣な歩みをもった方なのだろうか。玉井さんのことを調べれば調べるほど、その驚きはだんだんと強くなっていった。ぜひともこの20分程度の小さな作品で、私が体験した驚きの一部でも他の人々に伝えたい。そう思うにつれ、始めは暗闇だった道筋に、徐々にではあるが光が差し込み始めた。玉井さんの好物が銀座にある空也もなかだったということも、大いなる光の一部であったことをここに付け加えておこう。
(この稿続く)