今年もあとわずかで終わり、玉井正夫さんの生誕100年も終わる。ここで、改めて今まで触れてこなかった玉井さんの側面にも触れておこう。
 玉井さんがキャメラマンの技術向上のため、東京と京都の凄腕キャメラマンたちを西へ東へ奔走しながら一本化したことは前にも述べたが、当の玉井さんは、組織の運営の方向性にある程度先が見えてくると自らは後ろに下がり、事務的なことがらや機関誌の編集・執筆に専念する。1930年代前半から主要メンバーとして、現在の日本映画撮影監督協会にまで繋がる「日本キャメラマン協会」の機関誌の編集に携わると、その活動は60年代後半の引退の時まで続いた(玉井さんは、時に撮影の仕事がないときでも機関誌編集の仕事は率先して行っていたようだ)。そのため玉井さんがお書きになられた文章は、同時代の他のキャメラマンと比べてもとても多い。
 私は『キャメラマン 玉井正夫』の制作のため、現在目にすることのできるこれらの文章の多くに目を通したが、現在の優れた映画批評家と比べても遜色のない、素晴らしい冴えた文章をいくつも残しておられる(これは戦前の小津安二郎がいかに優れた批評家だったか、ということとも繋がってくるように思う)。
 ヌーベルヴァーグのムーヴメントを「物語のリアリズムから純粋な視覚運動への回帰」と見事に指摘し、1960年代のフランスで起こった「新しい波」のコンセプトを「映画よ視覚に戻れ」と的確に表現した文章、動きのリュミエールから叙事的な物語のグリフィス、そして絢爛豪華なスターが織りなす叙情的なメロドラマへと展開して行く映画の変遷を、「キャメラの画調の変遷の歴史」という観点から読み解いた文章など、玉井さんがお書きになられた文章は、まさに一級のキャメラマンにのみ可能な、目から鱗の表現で満ちあふれた刺激的な文章だった。
 もちろん、それら広義の映画史的な観点から書かれた文章だけではない。前回紹介した「軟体映画論」ともいえる自らが拠って立つ映画観を紹介した文章や、同時代の日本の他のキャメラマンについて触れた文章()、さらには成瀬巳喜男の傑作『晩菊』のこと細かな撮影設計を具体的に詳述した文章など(この文章は『キャメラマン 玉井正夫』作中でも積極的に紹介させていただきました)、それらの一つ一つに私は驚嘆した。
 そんな玉井さんは、東宝を退社し機材屋を開いた後、晩年は奥様と共に絵画に熱中される。ヴェネツィアが特にお好きだったという玉井さんは、海外にはお一人で足を運ばれたようだ。国内旅行には奥様とご一緒されていたようであるが、海外へはいつもお一人で行かれていたらしい。
 「海外と映画館へは一人でさっと行ってしまうんです」と奥様は仰られた。「それについてご不満などはなかったのですか?私も連れて行ってというようなことは思われませんでしたか?」という私の野暮な質問に対し、奥様は「いいえ、全然。国内だけでも十分楽しかったですし」とさらりと仰られた。
 玉井さんがお描きにになられた絵画に関して、福沢康道さんはインタビューの折に玉井さんからいただいたという絵をご持参され、多くのエピソードを語られた。とりわけ私の心に残っているのは、「キャメラマンはね、ロケで撮影すると、今この光のこの瞬間にこの風景を撮りたいと思うんだけど、なかなか現場の都合で思うように撮りきれないんだよね。玉井さんのこの絵を見てるとね、なにか引退された玉井さんがね、時間に囚われず、心行くまま風景を描こうとしてるんじゃないかって思えてならないんだね」と仰られたことだった。
 そのことと直接繋がるかどうかは分からないが、玉井さんはもっともご自身の気持ちがのった撮影として、成瀬巳喜男初のカラー作品であり、シネマスコープ作品でもある『コタンの口笛』を上げておられた。もともと文化映画をこよなく愛した玉井さんである。北海道の雄大な風景をカラーとシネマスコープで撮影することに玉井さんがどれほどの喜びを見いだしていたかは、具体的な感情として汲み取ることができる。
 2005年の5月から始まった『キャメラマン 玉井正夫』の制作は、大詰めを迎えていた。翻ってみるとたった3ヶ月の制作期間であったが、この作品の制作は私に途方ない財産を残してくれた。7月の末から2週間弱の間、パナソニックのスタジオから借り受けたパソコンと格闘し続けながらの編集は、8月8日の早朝にようやく終了し、翌9日(それは私の27回目の誕生日だった)にはナレーション取りも含めた整音作業を全て終えた。
 まだいくつかの作業は残っていたものの、MAを終了したスタジオでそのまま芦澤さんやその場にいた何名かのスタッフとともにゼロ号試写を行い、上映後、芦澤さんから「私も大変勉強になりました。佐藤さんにお願いして良かったです」と笑顔でお言葉をいただいた時、ようやく少しだけ肩の荷が降りた気がした。しかし、まだフィルムセンターでの一般上映が残っている。
 それから11日後の8月20日。猛暑の中、成瀬巳喜男の生誕100年で賑わう超満員のフィルムセンターにおいて、『キャメラマン 玉井正夫』は正式にお披露目される。会場には玉井さんの奥様を始め、ご親戚の方々など、この作品の制作にあたって大変お世話になった方々が揃われ、私は肝を冷やしながらスクリーンを見つめた。
 この作品が上映された、たった20分が永遠のように感じられた。別に笑いどころをいれたわけでもないのに、笑いが起こらないことにヒヤヒヤしながら上映終了の時を迎え、私は会場の外に出た。その直後から、私は個人的な冷や汗をかきまくることになるのであるが、それはまた別の話だ。
 それからしばらくが過ぎた2005年の秋、フィルムセンターでの上映の後、若干の修正を加えたものをVHSに落とし(主に字幕を付け加えた)、『キャメラマン 玉井正夫』の完成版として玉井さんの奥様に郵送した。数日後、仕事から帰宅した私は、ポストに鳩居堂の封筒が投函されていることに気づくと、取るもの取らず封筒を開封し、手紙に目を通した。
 「先日拝見した時には、一般の方には少し分かりにくい作品かなと思いましたが、昨日郵送いただいたビデオを拝見させていただきましたところ、そんなことはなく、とても分かりやすくできていると思います。編集のご苦労は大変でしたと存じます。ありがとうございました。ビデオは仏前にそなえてあります。主人もよろこんでいると存じます。 十月二十二日夜 ビデオを拝見したあとに。 追伸 "ビデオ墓前にそなえに参り報告して参ります。二十三日朝"」
 そう書かれた文面を目にした時、ようやく私はこの作品を作って本当に良かったと心から思うことができた。そしてこの作品を作るチャンスを与えていただいた芦澤さんに、私の拙いインタビューにお答えくださった日本映画の大先輩たちに、現場を手伝ってくれたスタッフの皆に、『大大阪観光』の存在を教えてくれた彼女に、この作品の最初の上映の機会を与えてくださったフィルムセンターの方々に、この作品がフランスで紹介されるきっかけを作ってくださった万田さんに、「私の」フランスの友人に、この作品の制作を心から応援していただいた玉井さんの奥様に、そしてなによりも私が最も愛するキャメラマンの一人であり、日本映画の歴史に欠くことのできない不世出のキャメラマンである玉井正夫さんに、心からの感謝を捧げた。
 1998年の溝口健二の生誕100年の時にはようやく映画の虜になり始めたばかりであり、2003年の小津安二郎の生誕100年には有楽町で行われたシンポジウムに観客として参加した後、上野の蓬莱屋で小津が愛したとされるとんかつを食べることしかできなかった私が、2005年の成瀬巳喜男の生誕100年には、他でもない玉井正夫の記録映画の監督として、その喜ばしき生誕100年に参加している。これを様々な人々との、様々な映画との、決して自らコントロールする術のない見えない力による出会い、それを「邂逅(めぐりあい)」と呼ばずしてなんと呼べば良いのだろうか。あれから2年たった今も、その見えない力の他の呼び方を、私は知らない。

(終)

 :とりわけ私が驚いたのは、後の黒澤明のキャメラマンとして知られる中井朝一の画調の変遷を「軟調の時期」と「硬調の時期」に区分し、前者の到達点を吉村公三郎『偽れる盛装』(1951年)であると断言し、その後の『生きる』(1952年)以降の黒澤明とのコラボレーションが中井を硬調派のキャメラマンにしたとの指摘であった。
 中井朝一(1901〜1988)は、成瀬巳喜男の『歌行灯』(1943)や『夫婦』(1953)のキャメラマンでもあるが、その二本の映画の間に黒澤明とのコラボレーション以降の極端な画調の変化がはっきりと見て取れる。前者は明らかな軟調、後者は明らかな硬調。
 なお、中井朝一と黒澤明のコラボレーション自体は1946年の『わが青春に悔いはなし』を嚆矢とする。(戻る)

 追記:玉井正夫さんの生誕100年にこの文章を書く機会を与えてくれたgojoさんに心からの感謝を捧げます。

『キャメラマン 玉井正夫』
2005/DVCAM/22分
制作:玉井正夫さんを記録する会 監督・構成・編集:佐藤央 撮影監督:芦澤明子 資料収集:廣瀬理恵 出演:芦田勇/小嶋眞二/福沢康道

[2007.12.11]