「大阪なんとかっていう玉井さんの映画があったよ」。
 『キャメラマン 玉井正夫』制作中のある日、スタッフとして資料の収集などを手伝ってくれていたある女性から、不意にそのような連絡を受けた。「それは俺も探しているんだけど、残念ながらフィルムが存在しないんだって」。私は、彼女の話をまったく信じることができなかったどころか、そもそも彼女が何を言っているのかよくわからなかった。「でもホームページに書いてるよ」。そう言われてしぶしぶ彼女がいうサイトのホームページを見てみると、なるほど確かに「大大阪観光」という文字が目の中に飛び込んできた。
 『キャメラマン 玉井正夫』という小さな作品の存在意義があるとすれば、それはこの『大大阪観光』という素晴らしい作品を玉井さんの仕事として紹介できたことにあるだろう。かねてから「ドキュメンタリーに大きな魅力を感じていた」という玉井さんは、1937年から1941年までの数年間を文化映画の仕事に費やしている。
 6月のある日、私は新橋にある日本映画新社へと一人赴き、そこに所蔵されている玉井さんによって撮影された文化映画をまとめて見るチャンスを得た。この作品の制作が始まった時、実質プロデューサーも兼ねていた芦澤さんへ真っ先に確認したことの一つが、成瀬作品のフッテージを引用することが予算的に可能かということだったのだが、芦澤さんの交渉むなしく(とはいえ、芦澤さんは幅広い交友関係とその抜群の行動力ゆえに、キャメラの才能と同じくらいプロデューサーとしての才能にも長けている)、成瀬作品の引用は難しいということが分かると、作中で実際に玉井さんが撮影された映像を紹介するために、私は文化映画時代の作品に目をつけたのだった。
 VHSにテレシネされた、壁一面どころでは利かない文化映画のライブラリーからは、目も眩むほど豪華なキャメラマンたちの、戦前から戦中に渡る知られざる仕事の痕跡が見て取れた。三木茂、平野好美、白井茂、瀬川順一、円谷英二。このままここでずっと彼らの残した仕事を見ていたい。大好きなショコラティエのショップで、宝石のような彼ら(彼女ら)の仕事を知らぬ間に何時間も眺めている女性のように、そんな衝動がふつふつと沸き上がってきたことを、今でもはっきりと憶えている。しかし、チョコレートは食べなければならない。
 玉井正夫撮影作品のタイトルをあらかじめリストアップしてきた私は、無数の宝が眠っているに違いないライブラリーの棚に必要以上の視線を向けないようにし(それはとても難しいことだった)、ほぼ丸一日をかけて『登高三千米』『山と戦う』『村の学校図書館』『室生寺』『新しき翼』『百錬日本刀』といった作品を順に見ていった(いずれも玉井正夫撮影作品)。時おり、白井茂撮影作品や、三木茂撮影作品などに寄り道しながら(白井茂のキャメラワークは圧倒的である)。
 これらの作品を見ながら、改めて玉井さんの瑞々しいキャメラに私は酔いしれた。その中から私は、そのキャメラワークにとりわけ揺さぶられ、感嘆した作品として『百錬日本刀』と『室生寺』の二作品をチョイスすると、それらを『キャメラマン 玉井正夫』作中の引用作品の候補とし、新橋を後にした。
 『百錬日本刀』は「皇紀二千六百年奉祝芸能祭出品作」と銘打たれており、一本の日本刀が出来上がるまでの刀鍛冶の仕事を紹介した文化映画であるのだが、その中にある、薄暗い闇の中で刀鍛冶が火花を散らしながら日本刀を鍛えていくシークェンスは、まるで溝口健二『名刀美女丸』の1シーンを思わせる美しさを放っており、その力強さと幽玄性を兼ね備えた卓抜なショットに、私は成瀬巳喜男の作品では見ることのできない、「キャメラマン玉井正夫」の別の一面を見たような気がした。告白すれば、この作品のワーキングテープは、作中での引用のためというよりも、ほとんど個人的な欲望のために持ち帰ってしまったといっていい。そのシークェンスは溝口健二のそれとも劣らない、素晴らしいものだった。
 片や『室生寺』は、「女人高野」で名高い、奈良県宇陀市にある室生寺を紹介する意図で制作された作品であり、玉井さん自らが「お気に入りの作品」と書いておられるように、元来の持ち味である、明るく艶やかなトーンで澄んだ空気を見事に表現した、ロケーション撮影の素晴らしさが冴え渡る作品であった。そこで表現された空気感は、後に成瀬巳喜男『山の音』で義理の父娘の繊細な心理の変化を見事に捉えきった、きめ細やかなキャメラワークを十分に予見している。
 二本の作品を繰り返し見ながら、これらの作品をどのような位置づけで使用するべきか日々考えを巡らしていたある日、冒頭の「大阪なんとかっていう玉井さんの映画があるよ」という連絡を受けたのだった。
 玉井正夫というキャメラマンには、いかなる説明も必要とせず、世界映画史にいきなり通底してしまう恐るべき作品がある。それが『大都会大阪交響楽』と名付けられた、今は失われたとされているサイレント映画である。この映画は、玉井さんが京都で古海プロに参加していた1928〜29年にかけて(この時玉井さん21歳)、大阪を舞台に撮影された前衛映画であり、制作、監督、撮影、編集の全てを玉井さんが手がけた、完全な自主制作映画である。制作費も全て玉井さんが自ら捻出したという、この驚くべき「純粋映画」は、1928年9月に日本で公開されたウォルター・ルットマン『大都会交響楽』に刺激を受けて制作された、およそ24分のサイレント映画である(註1)。
 「音楽を全編に流した映像詩、都会の朝・昼・夜の三部曲を構成したものである」この作品は、公開時にはドボルザークの「新世界」を流しながら上映されたとのことであるが、日本での公開後、イタリアの映画会社にプリントが売れたおかげで、その制作のために玉井さんが抱えた借金は帳消しになったとのエピソードも残っている。溝口健二『狂恋の女師匠』には数年遅れるものの、最も早い時期に海外に輸出された「日本映画」の一本であるこの作品のプリントの存在は、現在どこにも確認されていない。
 かねてから指摘されている通り、あるとすればイタリアに存在するはずであろう、この作品のプリントの発掘は、日本映画研究やモダニズム研究のみならず、『日曜日の人々』のオイゲン・シュフタンや『ニースについて』のボリス・カウフマンなどと同時代的なキャメラマンとして玉井正夫を捉えるという、世界映画史的な課題として残されている。この『大都会大阪交響楽』の日本公開は、衣笠貞之助『狂った一頁』と同じく洋画系の扱いで配給されており、牧野省三夫人でマキノ雅広の母、牧野知世子の肝いりで浅草電気館で公開されたことも記しておこう。
 この作品については、玉井さんの生前に行われたインタビューにおいてもその存在が幾度となく語られており、私も『キャメラマン 玉井正夫』の制作が決まったときには何よりもその存在を熱望したフィルムであった。とはいえ、それは現在ないものとされている。ではなぜ、ないはずの「大阪なんとか」というフィルムがあるのか。
 目前に開かれたホームページを見ると、「大阪市教育委員会」と書いてある。これはいったい何なのか。ページの隅に目をやると、なるほど確かに「撮影 玉井正夫」と書かれている。頭の中に「?」マークが充満していた私の目の中に「大大阪観光」という文字が飛び込んできたのだった。 
 はて?大大阪観光?
 更に追い打ちをかけるように「大阪市指定文化財」の文字が。何がいったいどうなっているのかさっぱりだった。鼓動の高鳴りを押さえることができないままに、そのページに書き記された文章を読み進めていくと、どうやらそれは玉井さんがJ・O時代の1937年に大阪市主導によって制作された、当時「モダン大阪」と呼ばれた「大都市大阪」を主人公とする、30分ほどの観光映画とのことであった(註2)。
 その説明を読み終わった瞬間、私はなんとしてでもこの映画を見たくなり、また見なければと思った。この映画を見ることによって、現在失われたとされている『大都会大阪交響楽』の一端でも想像することができるのではないか。しかし、どうすればこの映画をみることができるのだろうか。
 極度の緊張をもって、ページを順にめくっていくと、丁度一年前の2004年の夏に発売された大阪限定のローカル誌の特集で、この『大大阪観光』が取り上げられたという情報を見つけた。これはまず何よりの情報だと思った私は、即刻出版先に電話を入れ、バックナンバーを送ってもらうことにした。
 数日後、到着した雑誌をおそるおそる開くと、そこには私が期待した通りの、いや、期待以上、というよりは、まさに期待し、想像していたイメージとあまりに寸分違わず正確に符合した20枚以上のスチール写真が掲載されていた。これは運命であり、そして奇跡である。私は「大阪なんとか」の情報を教えてくれた彼女に心からの感謝を捧げた。
 夜が過ぎ、日が昇ると、その雑誌に書かれていた連絡先にすぐさま電話し、私はやがてスチールではない、動く『大大阪観光』と邂逅う(めぐりあう)。

(この稿続く)

 註1:古海プロ主催の、古海卓二は玉井さんが最初に本格的にコンビを組んだ監督であり、この『大都会大阪交響楽』の制作にあたってもなくてはならない人物であるのだが、あまりに謎の多すぎる怪人物である。玉井正夫夫人に、古海卓二監督の話をなにかお聞きになったことはありませんか、と尋ねたことがあったが、答えは「なにも聞いたことはありません」だった。(戻る)

 註2:以前の稿で、「1936年」と書いてしまいましたが、これは誤りでした。この稿を書くまですっかり勘違いしておりました。これは恐らく『大大阪観光』本編中に登場する、1935年に完成したばかりの地下鉄梅田駅に向けられた玉井さんのキャメラが、1936年の溝口健二『浪華悲歌』で見られる、同じく地下鉄の駅構内に向けられた三木稔のキャメラと、まったく同質の映画的感性を感じさせるものであったことからきた思い込みに違いありません(「こんなに似ているのだから、これは『浪華悲歌』と同じ年に撮られた映画に違いない、いや、もう何が何でもそう思いたい」という思い込み)。(戻る)

[2007.9.19]