動く『大大阪観光』は圧巻だった。その「瑞々しい」としかいいようのない、澄んだ空気感と鉄道、飛行機、エレベーター(!)、水上バスを駆使して大阪の街を自由自在に動き回るキャメラの躍動するリズムは、私の心を鷲掴みにした。明らかに玉井さんは、大都市「モダン大阪」に嬉々としてキャメラを向けている。
 ぐんぐん昇っていく通天閣のエレベーターから眼下の人々を捉えたショットや堂島川を渡る水上バスからすれ違う少年たちを捉えたショットなど、心躍り、胸が締めつけられる素晴らしいショットを見るにつれ、私には、今はないとされる『大都会大阪交響楽』の素晴らしさが十分に想像された。やはり玉井さんのキャメラマンとしての本分は、ロケーション撮影にあったのだ。
 もちろん、『室生寺』など玉井さん撮影による文化映画や、後年の成瀬巳喜男との仕事を見ることによってもそのことは存分に確認できるのであるが、実はそれらの撮影においては、自然光のもとで伸びやかに撮影することの喜びを、その職人的な慎ましさにおいて抑制しているのではないだろうか(もちろん、トータルな表現として、そのキャメラワークのレベルの高さは他の追随を許さない)。
 しかし、この『大大阪観光』の画面を見つめていると、今回だけは慎ましさには目をつぶり好きにやらせてもらう、と言わんばかりに思う存分キャメラを躍動させている。こんな無邪気な玉井さんのキャメラは他に見たことがない。
 この小さな観光映画から見て取れることは、キャメラマン玉井正夫とは、まさにリュミエールに忠実な意味において、天性の「シネマトグラファー」であったということである。これはまさに、私がこの作品において伝えたかったことの核心であった。
 「成瀬巳喜男も玉井さんも、映画に対してとてもチャレンジングな姿勢を持った二人だったということが伝わる作品にしてください」
『キャメラマン 玉井正夫』を制作するにあたって、芦澤さんが仰った唯一の要望がこれだった。『大大阪観光』を見終わったばかりの私は、それはまさにこの作品の存在によって表現できると確信した。実際『大大阪観光』のVHSを見た芦澤さんから嬉々とした声で「これ、すごいですよね」と電話がかかってきたことを今でもよく覚えている。
 思い返せば、成瀬巳喜男も1935年の『噂の娘』で、当時開通したばかりの隅田川を渡る水上バスを的確な視線劇の舞台に設定するなど、キャメラを向ける対象の感覚が非常にモダンであり、その意味においても玉井さんと近いものがあったのだと思う。そのことの裏付けになるかどうかはわからないが、玉井さんと組んで以来の成瀬巳喜男は、ファインダーをただの一度も覗かなかったという(玉井さんと組む以前、1930年代の成瀬巳喜男は1カットごとにファインダーを覗いていたようだ)。
 芦澤さんは、『キャメラマン 玉井正夫』完成後のあるトークセミナーにおいて「もっとも見てもらいたい玉井さん撮影による成瀬作品は『流れる』です」と仰った。私もその意見に深く賛同する。
 堂島川を中心に、1937年の大阪の街を見事に「水の都」としてキャメラに収めた玉井さんの視線が、隅田川周辺の水辺に住む人々を見つめた成瀬巳喜男の視線とまったく混濁なく、透明に一体化した希有な映画として、『流れる』は記憶されるべきであろう。石井長四郎()の照明とのコンビネーションも、『流れる』で一つの沸点に到達している。私は、『晩菊』と『流れる』を心から愛してやまない。
 『大大阪観光』における水の描写を見た目に映る、『流れる』の冒頭、隅田川をたゆたう水面を捉えたショットの美しさとは「1つのショットが際立ってはならない、ショットは常に次のショットとの流れにおいて捉えられなければならない」と主張した玉井さんと、「ラッシュがいいのは危険だ」と1つのカットが際立ちすぎることをつねに嫌った成瀬巳喜男とによる共同作業の核心が、見事に表現されたショットであるからに他ならない。
 私は『室生寺』と『百錬日本刀』を作中に引用するプランをすぐに取りやめ、すぐさま『大大阪観光』を作中の引用作品とすることに決めた。芦澤さんに確認をとり、、現在この作品を所有する大阪市交通局にその旨をお願いすると、幸いなことに『キャメラマン 玉井正夫』の制作意義を認めてくださり、心良く作品内での使用を認めてくださった。なんとありがたいことであろうか。この朗報を受け取ったときの目の前が一気に明るく開けていく感じは、今でも忘れられない。
 作品を構成する核は決まった。あとは、この素晴らしい核を中心にして作品をどのように構成するかを練り上げ、具体的に手を動かして編集していくのみである。実際、『キャメラマン 玉井正夫』という作品の編集作業は、いかにベストな形で『大大阪観光』のフッテージまでショットのバトンを渡すかということにのみ焦点が絞られることとなった。それはかなり手強い作業であった。
 成瀬作品のフッテージの引用を断念した代替案として、私は成瀬作品のスチールを作中に引用することにしていた。これにより、作品を映像の側から構成する要素として、撮り下ろしのインタビュー映像・成瀬作品のスチール・『大大阪観光』のフッテージの三つがあげられることとなる。
 『大大阪観光』との邂逅(めぐりあい)と前後して、これまたうだる暑さの7月上旬、私は新富町にある東宝アドフォトセンターのオフィスの一角、二畳ほどのスペースを借りて、まる一日を費やしてのスチール探しを行う。まだこの時点では、『大大阪観光』使用のメドも立っておらず具体的な編集のヴィジョンがたっていなかったこともあり、使用スチールの選定は困難を極めた(それはほとんど山勘に近かった)。
 先の日本映画新社の時と同じく、東宝映画をこよなく愛する私にとって、このスチール探しは宝の山であった。思えばこの作品を制作するにあたって、私はいったいどれだけの宝の山に囲まれたのだろうか。しかし、宝の山に囲まれてへらへらしていただけではないことも、ここにしっかりと記しておこう。いくらお腹が空いていて好物であっても、目の前にあるマカロン全てに手をつけることはできない。しっかりと、どれを食べてどれを断念するかを決めなくてはならないのだ。
 実際、玉井さん撮影による成瀬巳喜男作品に絞ったところでも、二人のコラボレーションの嚆矢となる『白い野獣』からその最後の作品となる『女が階段を上がる時』に至るまで、二人の共同作業は16作品にも昇り、さらに劇中のシチュエーションで撮影されたものと撮影中のオフショットのスチールが各々の作品に存在するだから(それはほぼ1000枚近くに昇る)、そこからほぼ勘だけに頼って30枚前後に絞っていく作業には、とてつもない決断力が必要とされる(それにより、ほぼ直感によって選定されたスチール1枚1枚に必然的な意味を導きだしていく構成作業が必要とされることになる)。
 東宝アドでの作業を終えた後、私は心身ともにくたくたであった。行きの道のりは宝の山を前に足取りも軽かったが、帰りの道のりでは心身をつらぬく疲労と「この選定で本当によかったのだろうか」という、解消されない迷いとともに夕暮れの新富町を後にした。
 しかし素材は揃ったのだ。あとはひたすら思考し、手を動かすのみである。ここから本編集に入るまでの一週間、そして本編集に入ってからの10日間、私は昼夜を問わず、目の前にある素材と向き合い続ける。

(この稿続く)

 :石井長四郎は『妻』以降、ほぼ全ての成瀬作品に関わった言わずもがなの照明技師であるが、彼が『めし』や『武蔵野夫人』、『次郎長三国志』(マキノ版)の照明技師であった西川鶴三の弟子筋にあたることはあまり知られていない。
 その石井長四郎の弟子でもあった照明の小嶋さんによれば、陰影のつけ方に繊細を極める石井長四郎のライティングは、どちらかと言えば、速撮り用の照明が得意だったとされる西川鶴三のライティングを自分の流儀に発展させたものであるとのことであった。この辺りのことは、『キャメラマン 玉井正夫』の本編でも詳しく触れました。(戻る)

 追記
 成瀬巳喜男の生誕100年を記念して制作された『キャメラマン 玉井正夫』という小さな映画は、2年の月日をかけて東京〜三重〜フランスを経て、この度神戸へと辿り着きました。
 神戸映画資料館 http://www.kobe-eiga.net/

[2007.10.17]