3 喧嘩、喧嘩は海の華
「よー来たやっか。え、文国」
猿渡ことサルはポケットから、馬鹿でかい金のライターを出した。耳に引っ掛けた煙草を一本口にぶらさげると、火をつけた。
「サル、見届け人のおるとか。今日は」
李文国の眼は、切れ長で白目がちだ。それが僕を射すくめている。
「知らん......関係なかっさ。勝手に来たと」
サルはぶわっと紫煙を目の前に吹き出した。煙幕のようだった。
「帰らんで、見て行け」李はぶっきらぼうに言った。「なかなか見られんぞ」
「なんやその黒か棒はぁ。チンポか?」
サルは煙草でトンファーを握った右手を指した。李とサルの間合いは五メートル。李は、ゆっくりゆっくりカンフーシューズを教壇に乗せる。サルは油断なく、李の眼を伺っている。僕は、僕はと言うと、びびって窓に背中をぴったりつけてつま先立ちで二人を交互に見ていた。
「武器は持ってこんつう話やったろう」
「知るか。この前は、荷受け用のローダーで殺されかかったけんな」
「あれはお前、ぼさっと倉庫街でしとるけんが、そーゆーとこで、殺られることもあるけんで、気をつけなさいっていう注意やっかあ。そげん親心も分からんとかな?」
そう言えば、一週間くらい前、李文国と手下がたまり場にしている、長崎港の倉庫街で、パワーローダーが転落して海に沈んだ話があったっけ。あれは猿渡だったのか。
「包丁で叩き殺したかったばってん、教室ば汚したらいかんって、そいに昼の定食で使うけん、父さんが止めて、で、これにしてやったとぞ」
と、その瞬間。
李文国はひらりと教壇の机を飛び越えた。前列の机を二列、四列と八双飛びで猿渡に迫る。黒い硬い棒が、猿渡の頭上に躍り込んだ。サルは、すっと背中を反らせて、その一撃を腹で受け止めた。
ガチン!
鉄と鉄がぶつかった衝撃音が教室に響いた。
猿渡は、腹で受けたトンファーを逆手に掴んで捻りあげた。李文国は、信じられないという表情で、捻り上げられるのを防いだ。と、そこにサルの尖ったエナメルの靴が飛んだ。端正なつくりの面長の顔が左方向に一気に歪む。トンファーを離すまいとして、李はサルのキックを顔面で二発、三発受ける。
「ううううーっ」
手負いの獣の声をあげて、李は手を離した。サルはトンファーを取り上げ、悠々と席を立ち、机の上に仁王立ちになった。そして、トンファーを捨て、学ランを脱いだ。
「な、なんやお前はぁ!」
李文国がそう悔しそうに、折れた奥歯を吐き捨てて叫ぶのは無理もない。サルの上半身はぐるぐる巻きにされた自転車のチェーンによって固められていたのだから。
「お前こそ、武器は持ってきたやっか。文句ばいうな、ばってん荒川たい!」
意味の分からない気合一声、ジャンプして李へ体当たりをかける。李は、まともにチェーン少年を受け止めて、床に尻餅をついた。そこをすぐ見逃さず、サルは頭突きを何度も李の柔らかそうな長髪を載せた頭部めがけて炸裂させた。
李文国の頭部は割れ、口からも血を流していた。だが、白い眼だけは光っていた。サルがさらに頭突きをかます直前、李の左手は己の背中に回っていた。
「あがーっ」
猿渡は、のどの奥から異様な音声を出して、のけぞって離れた。脚と手でスパイダーウォーク。李文国との間合いは遠くなった。
李の左手には平たい中華包丁が握られていたのだ。その刃先をひらひらさせて立ち上がったその姿は、頭は真っ赤に染まり、白いジャージに血しぶきが点々とし、悪鬼のようだ。
「運のよかったな。刃ば向けとけば、死んどったはずぞ」
僕の視界からは、サルが見えない。なにか痛みに堪えかねるような声と転がる音が、机と机の間から移動しながら聞こえるだけだ。
李は、気味悪く笑いながら、腰を落とし、包丁を構えてサルの姿を探し求めた。
「ん?」
猿渡の嗚咽とじたばたする音が止んだ。
窓を叩く潮風が、強くなったのか、がたがた音をたてた。
廊下を吹き抜ける風がひゅうと鳴った。
「あがっ」
腰を落とした李文国の頭部にチェーンが右へのぶん回しでヒットした。そのまま李は、床に巻き込まれるようにして倒れた。
跳ね起きたサルは、額から血を流しながらチェーンをくるくると身体の右側で回しながら、油断なく李の動きを注視している。
「あぐっー」
チェーンは、李の左手首に叩き付けられた。ぽきん、という音が床をジャラッといわせたチェーンの音と混じった。サルはだめ押しに右手を狙ってチェーンを回して振り下ろす気配を見せた。
しかし、その気配を察した李は、片膝で構え、右手でチェーンを止めた。止めた右手の拳の内側から血が溢れた。ぐっと握りしめた李文国は、チェーンを猿渡から引き抜いた。
「こげんもん!」
李文国は、チェーンを僕の方向へ放り投げた。
瞬間、捨て身のサルは、李の懐に飛び込んだ。ボディへのラッシュ。そしてそのままの前進! 受け止めながらも李文国の背後の座席は列を割り、窓側に追いつめた。李は、拳をサルの背中へ振り下ろすが、まったく前進をやめない。
僕は真横で行われている激闘を、硬直して見守った。二人の血と汗が、僕の外套に飛んできた。
「う、うぎゃあおうぎゃあ」
猿渡の胴間声でボディラッシュと前進はさらに力強くなった。支えきれない李文国。その背にあるガラス窓が、ぴきぴきとヒビがはいって行く。
「うおっ」
李文国の声か、それとも猿渡の声か。
どちらとも分からない声があがると同時に、窓ガラスの砕ける音がした。
そして、やはり同じく、李文国の姿が消えた。
僕は、あ、と思い、外を見た。
李文国が、一階の垣根に倒れているのが見えた。緑の濃い椿の垣根に、白い姿と赤い頭の李文国が身を横たえていた。
ぜいぜいと肩で息をして、頭から血を流し、階下に落ちた宿敵を見下ろす猿渡。呆然と見る僕の視線に気がついて、やつは顔をこっちに向けた。
「だいが強かか、わかったろう?」
顔中で笑ったかと思うと、やつは白目を剥いて床に倒れた。
廊下を走って来る宿直の教師の騒ぐ声とサンダルで駆ける跫がだんだん近づいてきた。
(つづく)