5 春の憂鬱

 ミルクのような匂いが鼻孔に溢れた。
「うち、どげんやった? ねえ、どげん」
女の部屋のベッドの上で、僕は天井の白熱灯をぼんやり眺めていた。その僕の視界に、覆いかぶさるようにして白里の顔が入ってきた。
 ポニーテールをといたウェーブがかかった髪が、僕の貧弱な胸にかかった。くすぐったかった。でも、僕は無表情を崩さなかった。
「ねえ」
白里は裸の上半身を預けてきた。そして胸に顔をのせて、僕を上目使いで見つめた。白里の卵形の顔の先端、顎の部分があばら骨をぐりぐりして痛かった。
「痛かなあ」
「ずうっと、栄助、ちんちんば入れんで卒業してさ、急に家に来るとやもん。そいでこうなってさぁ」
「匂いの良かった」
白里は僕のほっぺたをつねった。かなり力は強かった。
「なんでそげん甘か匂いのするとかな」
彼女は不意に起き上がって、小麦色の自分の肌の匂いをくんくん嗅いでいた。ちょっと上向きの鼻と伸びやかな眉、切れ長の眼を見ていると僕はまた勃起した。
「あー」
白里はにっこりして僕を口に含んだ。
 卒業式を終えて、高校の入学試験発表も終わっていた。僕は公立の高校へ。サルはなんの関係もなく中卒のみでブラブラすることに決めた。他の仲間とは殆どお別れだった。だけども、そんなことでは感傷的にはなれなかった。自分には長崎を出て行くという目標があって、その一歩を踏み出したんだから。
 入学式まで間があった。なにをするでもなく映画館へ通い、古本屋を流し、喫茶店に行くという日常の繰り返しだった。
 中華街の入り口近くにある「新世界」という劇場で映画を観て、その帰りに白里舞子と会ったのだ。彼女はもう、高校の制服を着ていた。
「なんで?」
「あ、寸法ば直しに行ったと。ついでやっけん着てきてしもうたと」
東山手の洋館が見える坂の上で僕らは向かい合っていた。長崎港に落ちる夕陽が眩しかった。
「うちに来ん? 誰もおらんよ」
 僕は、手に映画のパンフレットを持ったまま、のこのこついて行った。
「また入るっとぉー?」
彼女は笑いながら、初めての猿になった僕を受け入れ続けた。
「ね、こ、高校に入っても、たまに、してくるっ?」
白里は慣れた感じで、僕の上になって揺れている。小振りな胸が鎖骨と一体になっているみたいで、揺れもせずこちらに向かったり離れたりして見えた。
「うん」頭は観察しているけれど、言葉はそれしか出なかった。
 白里の家の風呂を使うのは変な感じだった。
道で挨拶する親もここを使ってるんだなと思って、意味も無くシャンプー類の銘柄を見たりした。
「じゃね」
白里は、淡いブルーのブラウスに制服のスカートをつけて玄関に立っていた。僕はジーンズのチャックとシャツのボタンを気にしながらスニーカーを履いた。
「これ、忘れんで」
映画のパンフレットで頭を叩かれた。
「髪、乾いとらんけん、濡れるやろ」
「ははは」
僕は冊子を受け取った。ブラウスから透けて肌が見えた。
「ノーブラたい」
「ははは。家やもん」
僕は白里に抱きついて、ポニーにまとめ直したうなじを舐めた。一瞬笑った彼女は、すぐに僕のチャックを開けた。細くて長い指も小麦色かあと改めて発見していた。お互いの鼓動がとてもよく聞こえた。
「後ろから」
それだけしか、彼女の言葉は覚えていない。
 翌日、身体に他人の指の力や、引っ掻かれた痛みが虫のように這い回っていた。お袋や爺さん、婆さんと話もせず、また街へ出て行った。
 今日は、白里と何故か会いたくなかった。だけども這い回る感触には不思議な力があった。僕は波止場の倉庫の前で、電話をかけた。

 繁華街のステラ座という映画館の前で井伊と待ち合わせた。黒い長めのスカートにグレーのパーカー姿で現れた。
「入学式の準備した?」
エレベーターの中で、井伊は明るく良くとおる声で僕に話しかけた。話しかけるとおんなじに、彼女は僕の手を握った。
「学ランは同じでよかし、バッジだけかな。革靴は今度買う」
「うち、好かんな。南東高校ってダサかもんね。夏服とか、生地薄いし、開衿広すぎるとよ」
僕は上の空で聞いていた。昨日と違う肌の感触が手から伝わってきている。
 映画はコメディとつまらない恋愛ものだった。一本目は笑ってみていた。二本目は退屈だった。春休みなのに、客は僕らと、一番後ろにいる老人だけだった。映写室から発射される一条の光を見た。座席のシルエットの奥に老人の影があったけれど、眠っているようだ。こくりこくりと船を漕ぐのが見えた。
「.........」
 僕は井伊の横顔を見た。ほっそりした顔が映えている。からかって「埴輪」とか呼んでいたけれど、その顔が僕は好きだった。そっとスカートの上から脚を撫でた。
 彼女はまったく表情を変えなかった。
『君のことが忘れられないんだ』
『忘れてちょうだい。あなたにも家庭があるのだから』
イタリア系の中年俳優が駅で人妻に言いよっている。僕は彼女の黒いスカートを引き揚げて太腿を触った。そして。
『ああ、なぜ私たちはこんな時代に?』
 井伊はすっと僕に向き直った。
「栄助くん、坂上さんに告白したとやろ」
 僕は唾をごくりと飲んで彼女の眼の奥を見るだけだった。手は引っ込めなかった。厚かましくすべすべした太腿に置いていた。
『こんな時代に出会ったから、こうなるしかなかったのさ』
イタリア系の俳優は相手のブロンドを撫でながらキスをした。
 井伊の唇ははじめから開いていた。そこから舌が僕の口へ入ってきた。彼女の手は、僕のズボンの中に入ってきていた。
「坂上さんにはふられた」
「知っとぉ」
 彼女は身体を折り曲げて僕を含んでくれた。映画が終わった。僕らは席を立たなかった。
「もう一回観よう」
頬を赤くして井伊は言った。僕は何度も馬鹿みたいに頷いた。
 今度は誰も客はいなかった。
 僕は彼女をずっと触り、指を入れていた。
 彼女は僕をずっと握っては、舐めていた。
「なんばしよるとかなー」
僕と井伊はハッとして飛び上がった。井上の歯が当たって痛かった。振り返ると、頭に包帯を巻いた猿渡がニヤニヤと笑っていた。
「サルくん!」
「おー、シズっぺ。サービスよかやっか」
井伊は、恥じらいもせずにビンタをサルに見舞った。サルは大げさに倒れてみせた。
「坂上んことは忘れて、よかことでのー。いや、友だちとして嬉しか、よかこつ!」
「なんでここに」
「なんや、俺はスチーブ・マーチンは好きやしな! お前に教えてもろうた『サボテン・ブラザーズ』からぞっこんさ。チャック上げろさ」
僕は慌ててチャックを上げた。井伊はさっきと違ってケラケラ笑った。
「いやー、シズっぺの恋が成就してよかったなあ。小学校から、ずーっとお前の恋を応援した口やけんな」
「邪魔ばっかりしとるやかね」
「はは。お前ら同じ高校やし、これからはボボしまくりやなあ」
「映画を観らんね」
「もう、飽きた。よかもん見たけん、帰るばい。ちゃんとするときはサックつけろよ!」
派手な長袖アロハにボンタンズボン姿のサルはひょろひょろと闇の中を離れて行った。
 僕と井伊は顔を見合わせて笑った。
 映画館を出て、パンを買って二人で波止場の倉庫街へ行った。時計は七時を過ぎていた。コークスを乗せたトロッコが数台、ひっそりと並んでいる。その前にずらりと灰色のトーチカを思わせる倉庫が建っている。僕と彼女は倉庫と倉庫の隙間に入り、そこで抱き合った。
「坂上さんはいいと?」
「いいと、いいと」
「うちと付き合う?」
「うん、うん」
「初めてやけん、やさしうして」
 僕は彼女の「優しく」ということは聞いたけれど、相当に荒っぽくしてしまった。パーカーを開いて、Tシャツをめくりあげ、彼女の胸に顔を押し当てながら入った。
 彼女は唇を噛んで目を閉じていた。
 僕はこの二日でダラクした。
 春の甘ったるい花や葉っぱの匂い、潮の香り、彼女の石鹸の匂いが頭をぐるぐる回っていた。

[2008.9.14]