4 パラレル1989
と、僕は気がつくとタクシーの運転手だったことに気づく。
目の前では高校生フェンサーが競技を始めていた。もう、僕の「あの時代」ではない。一九八九年は遠い向こうにいってしまったのだと、白い踊るような影を見ながら思い至ったのだった。
* * * *
が、この「僕」である田中栄助の生きている時代はあなたが読んでいる現代、「いま」ではない。サルの元気一杯の暴力も、すべて違う次元、パラレルワールドの出来事である。
そのように書く私は誰なのか。
私は「僕=田中栄助」であり、かつまた、そうではない存在だ。私は、別の一九八九年を生きた売れない文士である。
田中栄助の青春は二〇〇四年に生まれた。私の生きた一九八九年から二〇〇四年は挫折の昭和末史だった。昭和末史というのは平成のこの世と繋がっているという、私の心の歴史だ。したがって私は、平成を生きずに昭和を延々と生きてきたのだ。
一九八九年の長崎は、まさに昭和の消化不良のはじまりであった。
天皇崩御は、まるで悪夢の壷の蓋が開かれた出来事だった。まるで、時空の渦に巻き込まれるように昭和人は逝ってしまった。
禍々しい出来事のスタートは、女子高生コンクリート殺人だ。私は新しい高校生活を前にして、剣道の独習に励んでいた。
毎朝、高下駄を履き、諏訪神社の境内迄竹刀を肩にかけて走り、素振りを百回やっていた。その帰りに、新聞を読んで震えた。通りすがりの女子高生をさらって、暴行の末、ゴミのように死体を棄てたとある。
犯行に及んだ少年たちには、私と変わらない年齢のものもいた。
性欲に支配され、その支配から逃れようと剣道に走っていた私にとって、その事件は隣人の犯罪に思えた。
隣人?
そう、隣人だ。隣人とは、中学の同級生たちだ。田中栄助の青春に存在する、猿渡や李文国がその代表だ。しかし、彼らは性を喧嘩によって昇華している。
私の生きた時代の隣人はそうではない。気もよく、優しい一方で、ニキビ面をギラギラと光らせて女子を性欲のはけ口として利用していた。
校舎のトイレで。
体育館倉庫で。
放課後の教室で。
夜のたまり場で。
私はその隣人をいとおしみながら、軽蔑し、別の道を探っていた。別の道は少ない。土地のエリートコースを歩むことが、選択肢の一つだった。つまり、私たち昭和最後の義務教育生にはY字型のコースしかなかったのだ。
その隣人の縁戚が起こしたのが、関東の陵辱事件だった。私は、竹刀を小脇に挟んで新聞を読みながらその近さを悟った。
いい知れぬ恐怖を抱えて高校の門をくぐった後は、幻滅の連続だった。
高校とは名ばかりの、大学予備校と言える詰め込み教育。「気迫と情熱」を謳い、生徒に軍国的な文武両道を強要する。
クラスも成績順。羊になれる生徒は優遇され、そこから外れた者は、人間扱いはされなかった。そんな中で、冷戦も終わりをつげ、おたくによる殺人事件が起こった。
学校内は、外の事件をよそに、着々と受験へ向けてシステマチックに動き続けた。私は完全に学校を諦め、窓際で陽明学の聞きかじりを反芻していた。
「いま見えている現実は現実ではない。見えないもうひとつの現実がどこかに存在するはずだ」と。
その締めくくりは、一九九〇年の本島市長暗殺未遂事件だった。街の事情通は、事件前にその凶行が水面下で計画されていることを知っていた。私は衝撃を受けた。こうしてはいられない、なにか行動を! 私に銃があれば、続くテロに走ったかも知れない。本島等の思想背景などどうでもよかった。
なにか、生きる意味、生きる証を残し、己を爆発させて閉じていく昭和の門をもう一度開いてみせたかったのだ。そのためならば、どのような集団に属しようが構いはしないと思った。左翼であろうが、右翼であろうが、命のやり取りそのものに憧れたのだ。
しかし、右翼の門を叩くことが出来なかった。詰め襟の制服で、地元の右翼団体の事務所の前で、ただ呆然と突っ立っていることしか出来なかったのだ。
革靴のつま先迄、かじかむその日の夜、私はビデオショップで「仁義なき戦い」を借りただけの話だ。
それからは浮遊した青春だった。映画に憧れ、そこで燃焼しようとしたがスクラップ同然の自主映画を作っただけで自信を喪失した。さらに、部活で燃えるつもりが、幽霊部員だった私は実力もなく、負け続けた。一念発起して練習に熱中したが、県大会の決勝どまりの成績で終わった。
どこか燃えかすを残しながら大学を目指した。往年の学園闘争の時代、「赤い経済」と名を馳せた横浜国立大学を受験した。そこで左翼運動に身を投じようと考えたのだ。しかし、受験は失敗。山口大学へ進学した。
そこで学生運動のゾンビと出会った。
だが、私には生ける屍は「生きていた」のだ。暴力闘争、昭和の門を開く、その夢に身を投じたが、ゾンビ集団は享楽的なサークルだった。補導された私は、警察官から、
「もうその時代は終わったんだよ。時代遅れなんだぞ」
と諭された。私は、中退した。私は孤立した時代遅れの青年だと思い、故郷に帰らず、宇部という都市で隠棲しようとした。
塾講師で糊口を得ながら、性の衝動と闘争の脱落のカクテルを毎日飲んだ。塾では優しい兄を演じ、裏では教え子やその親と関係しようとした。最後の一線を越えられない中途半端な性の旅だったが、充分にデカダンだったと思う。
夜な夜な在日韓国人、朝鮮人のラッパーと行動を共にして反日・日本人たろうとした。彼らの影響で「資本論」を読み、柄谷行人を読んだ。クロポトキン、大杉栄にかぶれた。行動も遅れたが、思想形成も遅れていた。
そんな時、オウムのテロが起きた。
私だけではなかった、と思った。だが、もう熱情はなかった。昭和の門は閉じたまま、新しい時代は来ていない。そしてこのままずっとそうなのだ。そう諦めていた。
私の中途半端な火遊びが露見して、土地を追われると同時に、日本映画学校入りを誘われた。行き場のない私は、沈鬱なままモンゴルへ行き共産主義の残骸を眺め、現実問題として米軍の支配下におかれている、戦闘機の爆音が響く沖縄を旅した。そして、うやむやのなかで上京を決めた。
宇部を去る日、日本にいながら異邦人を生きるラッパーたちに見送られた。
「チョゴリを切り裂いた奴を追っかけた時、お前はいちばん、俺たちに近い日本人だと思ったぜ!」
と笑いかけてくれた。私は彼に微笑み返したが、そのチョゴリを着て通う女学生を組み強いて唇を奪ったことを思い出していた。そして「日本人」という言葉にも屈託を覚えた。
東京の生活は、開かない門の前でうずくまるような日々だった。
そんな時に、田中栄助の青春。もう一つの一九八九年が目の前に現れたのだった。
こうあるべきだった青春。
私は、「僕」によるパラレルワールドにまた戻ろうと思う。
いま、この世界に私のいるべき場所はないのだから。
(つづく)