7 入学はしたけれど

 空気のたがが緩んだような中に、生暖かい風が吹き、淡い色した桜の花びらが舞っていた。そのひらひらが、黄色に霞んだ街を一瞬一瞬切っていくような視界が広がっている。僕はぼんやり、港を見下ろしながらその光景を眺めていた。
 今日という日は、入学式。新しい生活だというのに、全然嬉しい気分も湧かないでいた。
 朝九時からの式に遅刻しないように、大慌てで小山をのぼった。なんという名のない小山なのだが、階段が延々続く急勾配。若い緑が萌えたっている段々畑を突っ切ってのぼりきったところで汗が噴き出した。
「こげんとこに毎日来るとか」
僕は一人でぼやく。膝に両手を置いて、背を折り曲げて地面を見つめる。にゅるりにゅるりと蚯蚓が畑の土めがけて進んでいるのが見えた。
「急ごう」
僕は身を起こして歩き出した。
 学校はその小山の頂上にある。頂上をすぱりと切ったような平地に不格好な煤けた要塞じみた校舎が三棟並んでいる。そしてその校舎の両脇を二つの体育館が挟むようにして建つ。その建造物の前にコンクリで固めたスタンドがあり、運動場が続いている。そのスタンドから市内を一望できる。
 今朝、入学式は双児の体育館の片割れ、西のほうの「情熱館」で行われた。僕は下駄箱前の硝子戸に貼られたクラス振分け表の指示に従って七組に向かった。青いリノリウムの廊下をキュッキュッと言わせながら真っ白い上履きの歩を進めた。流れのままに行動している自分がバカバカしく思えた。高校生だってそんなものか。セックスを覚えても、なんの成長も認めてもらえないんだなと思った。しかし、そんなことに不平を抱いても意味がないので、僕は大人しく七組の敷居をくぐった。みんな知らない顔ばかりだった。なんだか意気揚々と喋っている一団は、恐らく中学の知り合いだろう。僕はそんな気安い仲間などいないので、指定された机に向かって腰を下ろした。中学を出たってそんなに変らないもんだと改めて思って情けなくなった。お膳立ての通りのものなのだから仕方がない。今日ばっかりは、ここらの浮き浮きした集団に混じって笑っておこうと殊勝な気持でいた。
 やがて放送が入った。黒板右上の四角い箱のスピーカーからくぐもった、それでいてなんだか気取った女の声で、廊下に速やかに並んで担任の指示に従えと言ってきた。クラスの連中は知り合いのいる奴は団子になってまだ喋っている。僕のように相手もいないのはただ無闇に天井やら床やら背面黒板を眺めて忙しそうに頸を動かすくらいのものだ。頸を回しながら、くだらないことになったと後悔ばかりしていた。担任は来ないのか、とイライラしていると、小柄だが骨っぽい体つきの中年が足を引きずりながらやってきた。担任だと簡単に宣言した男は、大人の一歩手前のお前たちは、いま放送を聞いていたのだから行動に移せるだろうと言った。僕は、待ってましたと席を立って廊下に出た。中年も宣言すると廊下に出て、ダークスーツの前ボタンを気にしながらクラスの整列を待った。髪はやたらに隙間があって、メデューサのようなちりちりした塊のものが頭にのたくっているので、僕は中年を蛇頭と勝手に名付けてやった。蛇頭は、整列が進むと黙って先導して歩き始めた。
 廊下を歩きながら校内を眺めると、いよいよもってくだらないところへ来たと思った。どこもかしこも同じような造りで、ひょっと隙間があれば「気魄をもって生きろ」「人生は勝利のみが目標」とか「目的ある人生」なんてものを貼ってある。どうにもやりきれないので、廊下の青ばかり見て歩いた。
 体育館はこれまた「情熱館」とは名ばかりのがらん堂である。パイプ椅子を整然と並べてるだけのものだ。いっそう、その殺風景さが滅入らせるものに見えた。椅子に座って正面を見ると日本国旗がでかでかと貼られて、趣味の悪い、霞草だらけの花瓶が演台右手に飾られていた。
 式が始まると、まあお決まりの生徒会だの保護者会だのが喋る。その度に、立ったり座ったりしては頭を下げる。同じことなら、いっぺんに喋らせてお辞儀も一回にしてもらいたかった。頭を下げるたびにバカバカしくなる。で、真打ちの校長が現れて喋り始めた。
「えー。ここは進学率98%の、公立高校きってのエリート高校であるのですね。エリートの定義。それは文武両道。そしてこれを支える精神性は情熱! 気魄! これ真実でありますわけで、何処の高校へ回されるか分からないという説で非難される段階選抜方式の素晴らしさを、在学の年々歳々にかみしめるわけであります」
四角い青い髭の痕をもつ顔の校長。頭の髪も青っぽい。のっぺりした青髪校長だ。こいつが顔のまま、のっぺり貧相な演説をぶつ。繰り返し「気魄」「情熱」を言うものだから、いっそ高校の名前も気魄情熱高校にでも変えたらいいと退屈まぎれに思った。キョロキョロすると同窓生は神妙な顔をしている。そうとうに人間が出来ているか、馬鹿なのか。まあいいさと思って前を向いた。そこへいきなり、
「やかまし! 貴様の言う気魄と情熱で死んだ生徒のおるとぞ!」
という胴間声が響いた。在校生、新入学生の頭が一斉に背後に向かった。すると、二階の踊り場に猿渡と李文国、そして仲間と思われる三人が立っていた。
 猿渡は何故か中学生時代の学ラン。李文国はいつもの白いジャージ。他三人はボンタンズボンに紫色のダボシャツ姿だった。
「ここの学校はなあ、俺たち猿渡血盟団のなあ、義兄弟の大事か命ば奪ったとぞ! 今朝! 八時二〇分、義兄弟大西浩くんの兄貴、大西......」
そこでサルは小声になって横のダボシャツ少年になにか訊いていた。サルは手に紙切れを持っていた。学生は水を打ったようにサルの言葉を待っていた。
「ああ......大西寛治くんがマンションパレスの屋上から身を投げて即死した!」
「お前ら! なんばしに来たとか!」体育教師だろう体つきのしっかりした中年二人が踊り場に向かいながら叫んだ。
「即死!」ひるまずにサルは言う。「その大西寛治くんは、この学校の三年生やとぞ! 遺書には一言『悔しい』だ。どうだ! 人殺し高校!」
 一気に学生はざわつき始めた。
「諸君! 前を向いて話を聞きなさい!」
青髪は壇上で叫んだ。しかし一向に静まらない。僕はニヤニヤしてサルを見上げた。その僕の視界に蛇頭が入った。いきり立った教師の中でやつだけが、薄笑いを浮かべている。
「全校生徒、頭、前!」
蛇頭から飛び出した気合の声で学生は静まった。僕は、一人だけ、サルを眺める格好になった。
 サル一行と体育教師たちは踊り場で向かい合っていた。
「警察の世話になりたかとか!」
「センセイ、おいたちは、ただニュースばもってきたとですよ」サルは卑屈そうに言って、傍にいた顔の赤い少年を突き出した。
「この大西浩くんのお兄さんが! 自殺したとぞ! 自殺反対! 自殺反対!」
サルは喚いた。そして猿渡一行は唱和して「はんたーい」と威勢悪く続けた。
「警察を呼べ!」体育教師は叫んだ。
「自殺反対」と叫んだかと思うとサルは踊り場からひらっと体育館の床に飛び降りた。片膝ついての着地は見事なもんだ。続いて李文国たちが飛び降りた。さすが文国だったが、他はしまらない着地でよろよろして、ばつの悪い笑いを残して逃げるサルに続いた。
 猿渡のもたらしたニュースは、いきなり味わった高校の幻滅に確証を与えてくれるものだった。
 えらいところへ来た。
 今日の入学式を思い出しながら、僕は霞んだ港町を眺めていた。

[2008.10.20]