6 入学前夜

 「淫蕩」。僕は辞書で調べてみた。
「淫らな行為に耽る。それが度を過ぎた様子、情態」
 僕には当てはまらないな、と思って分厚くて埃っぽい辞書を閉じた。読みかけの「風の谷のナウシカ」「アキラ」「アドルフに告ぐ」をぱらぱらとめくりながら、ここ一週間のことを考えていた。考えていると勃起した。先端が痛かった。
 白里舞子とは、井上の家まで送って行った帰りにレンタルビデオ屋で会った。ぼーっと普段はかけない眼鏡をレーベルに近づけて見ている白里を見かけた。
「映画観ると」
「あらあ、うん、暇やっけん」
「一人?」
「うーん、いつ帰るか分からんけどお母さんもお父さんもスナック」
「じゃ」
「じゃ、って?」彼女は桃色の唇の端を持ち上げるような笑い方だった。
「お願いやけん、つけて、つけて、もぉ」
僕は夢中で、井伊と違う身体を全身で感じようともがいた。
 井伊志津は、あの夜のことがなかったような顔で、家へ遊びにきた。そして本やビデオを観て、ご飯を祖父や祖母と一緒に食った。万事笑い上戸の彼女は、祖父と祖母の皮肉り合いを聞いて声をあげて笑った。お袋は、
「シズちゃんみたいなお嫁さんがいいねえ」
と店の出がけに声をかけた。井伊は笑って頭を下げた。僕は箸をもったままぼんやり見ていた。
「な」僕は外人墓地の暗がりで、足を止めて井伊に声をかけた。
 井伊は、すっと僕に抱きついてきた。彼女は僕と背が変わらないんだと思った。胸の弾力があばらに伝わった。小さくてぽってりとした唇を必死に吸った。
「もっと先は、今度、うちでね。よかろ?」
井伊の言葉はきっぱりとしていた。僕は黙って頷いて、彼女の家まで送った。
 その帰り、坂を下りながら思いついた。白里に電話をかけて、外人墓地に呼んだ。
 淫蕩ではないな。と、勝手に片付けて明日着ていく学ランと革靴を整えた。階段をどたどた上がってくる音がした。時計を見るとまだ八時半だ。祖母が店じまいする時間には二時間はある。
「お、モテ助くん。こんばんわ」
サルだった。僕に声をかけると、すっと後ろを向いて仏壇の前に座って頭を下げた。
「わいん、父ちゃん死んでから何年か」
「あ、もう十年かな」
「そうか。俺んとこもアブナか。親父はまた入院たい」
サルは向き直ってあぐらをかいた。ポケットから煙草を取り出したが、火がないようだった。あちこちをまさぐって、天井を眺めている。僕は背後の仏壇を指差した。
「お、そうか」仏壇の線香の火をもらって煙を吐いた。「あんな、お友達を連れてきたぞ。おーい」
僕は階段の上がり口を見た。すると李文国が現れた。白い割烹着すがたなのが滑稽だった。
「おす」
「座れ、座れ、同志」
李文国は、サルの傍らに座った。大と小のコントラストが変だった。サルは相変わらずのアロハ姿に包帯を巻いている。よく見ると文国もあちこちに包帯がのぞいている。
「あいからコイツとはウマのおうてさ。兄弟になったわけさ」サルは膝を叩いて上機嫌だ。
「うん、兄貴」文国はニヤッと笑った。
「へえ。いろいろあるなあ春休み」
「けけっ。わいは坂上にふられてボボ三昧やけんねえ。変われば変わるもんさ」
文国は僕を妙な目つきで眺めている。
「弟はまーだ童貞やもん。文国、栄助いやモテ助くんに教えてもらえ」
「うん。よろしくな」文国はぺこりと頭を下げた。
「は、いいっすよ。俺でよかったら」
「けけけ。文国の叔父さんやら兄さん、姉さんは明日から北京に帰るらしか」
「うん。福建人やけどさ、俺の家は。ばってん俺と違うてインテリやけん、短期留学に行くとさ」
「モテ助くんも県下一のインテリ高校、南東に明日からやもんな!」
僕は曖昧に笑って頷いた。サルはキラッと目を光らせて、「なんやうかんの。セックスで頭のボヤケタか」と呟いた。
「そうじゃなか。南東は俺は志望しとらん。五つある県立高校なかの一つで、俺は西北に行きたかった。まんべんなく学力差が出来んように学生の割り振りのあった結果が南東やったと。俺は不満さ」
「高校行くだけよかたい」文国は目尻を下げて笑った。同時に頬の瑕もゆがむので不気味だった。
「弟よ、そいは違う。高校にいく。頭のよか。それは違う。あんコンクリート殺人ば見ろ。みんな学生、そりゃアンポンタンの無職もおったろうが、おつむの程度はおいたちよりも上ぞ。それがあいたちゃ、さんざんムゴかことばして。高校というとは、新しく馬鹿を決めていく順序決めの場所さ。俺はそこから自由でおりたい。鳥のようにのう。松田優作のように孤高でおりたいの」
文国はウトウトしていた。すぱーん。と、サルは腰に挟んであった雪駄で文国の頭を打った。
「失礼しました」文国は涎を拭って言った。
「栄助、あんな、姉ちゃんがお前のお母さんの店に正式に勤めたかって言うとる。話ば聞いてやってくれ」
サルの姉さんの清子さんは、今年十九歳になったばかりのひとだ。色白で、お嬢さんのようなのが不思議だった。一度、お袋の店を手伝ってくれたことがあった。
「姉ちゃんでオナニーはしたとやろうし、貸しはあるわけやけん、よろしくな」
そう言うとサルは立ち上がった。ちびた煙草を銜えて文国へ「火」という。文国は右手を差し出す。煙草をおく。文国は握りつぶしてポケットに入れる。
「じゃあな。暇のあったら、明日の式には行くけんで」
 階段を下りて行く二人は、なかなかの凄みがあった。サルは下の祖母と祖父に頭を下げて去って行った。
「サルちゃんのお父さんはまた入院ね」
「そげんごたる。白血病の悪化したとやろ」
「不憫かねえ、清子ちゃんは。あげんバカば抱えてさ」
祖母はちらっと祖父の顔を見て店先へ出て行った。祖父は、文庫本をジッと読んでいた。
「赤光」と表紙に書いてあった。
「明日か」祖父は本から目を離さずに、店の見える食堂の椅子に座ったまま言った。
「うん」
「高等学校は、勉学だけじゃなか。大学で学ぶ前の人間準備たい」
「うん」
「健康診断はいつか」顔を上げた祖父の眼鏡が蛍光灯を反射して光った。
「大学病院には来週行く」
「そうか」再び顔を下げて文庫を読む祖父。
「部活の出来たらよかな。運動したかったろう」
「うん」
 部屋に戻って寝転んだ。そして下半身をいじった。考えてみれば、井伊も白里も俺の瑕を見てなんにも言わないな。心臓手術の傷痕は二十八針。むかでのように頸の下から腹まで続いている。あばらも目立つ程、手術跡は盛り上がって硬い。鳩胸みたいだ。
 ずっとこれが、僕の身体を縛ってきた。思うようにスポーツできない。体育を休むと好奇の目で見られる。水泳では、皆、傷痕を見る。触る。僕は手術の前、十一歳までしか生きられないと言われた。成功しても、無理は禁物と。
 セックスも出来た。
 俺は明日から高校生だ。
 やれなかったことをやりたい。
 白里と井伊と三人で揉み合う夢を見たあと、
心臓病で死んだ親父の遺影をちらっと見た。

[2008.9.14]