第10回 遅れすぎたツツイストの回想

 僕が筒井康隆さんの本を読んだのは高校一年生の冬だった。
 あのころ、僕は気鬱だった。なにが原因かというと、入った高校がいけなかった。郷里である長崎の県立高校の受験制度が、まず不味い。段階選抜というやりかたで、五つの高校に合格した学生を割り振りしてしまうのだ。A高校に行きたかったのに、B高校に入れられてしまう。文句はなし。ノークレーム、ノーリターンの世界である。
 僕は県立高校でも西高と呼ばれる街なかの学校へ行きたかった。ここは古く伝統もあって、なおかつ軟派が集うと噂されていたからだ。そう、僕は軟派になりたかったのである。当時から、映画監督を職業としたいと考えていた不埒な中学生は、遊んで暮らす高校生活をこそ望んでいたのだ。好きだったSさん(ロシア人形のような、心の中でアンナ・カレーニナと呼んでいた。完全なる西洋の少女が存在したのだ)も西高へ行くと聞いていたし。
 ところが、僕が配属された高校は、名だたるなかでもスパルタをして知られる南高だったのだ。一気に気鬱に見舞われた。そこのスローガンが「気迫と情熱」というもの。これだけでもげんなりするでしょう? 詰め込み教育とスポーツを両立させる、これが理想の学校だったのである。そこで映画監督になりたいとか、文学を好む、なんてのはハッキリ言って落ちこぼれ予備軍なのだった。
 僕は偽装して部活に入った。選んだスポーツは、フェンシング。競技人口が少なく、ゲーム性もあり、武道と言ってもスルー出来るようなものだったからだ。
 まあ、入って数ヶ月は面白かったし、なんだか知らないが体力も有り余っていたから頑張った。ところが、夏休みを迎える頃から、飽きて来た。こそこそとやってる文芸部なんか愉しそうに見えた。栗本薫が天才だった頃だ。読みたい。しかし、そこの世界へ一歩入れば軟弱者だ。僕は突っ張った。隠れてこそこそ芥川だの川端だの読み、山本周五郎や司馬遼太郎でさえ隠れて読んだ。おくびにも出さないようにした。だが、映画と小説の誘惑には勝てなかった。
 文化祭の出し物を決める席で、文化部長(ああ、偽装も完璧ではなかったのだ)の僕は強引に自主映画を撮ろうと豪語した。反対する女子を、徹底的に論難した。
「映画を嫌いな女子は、野蛮だ。野蛮人は女ではない。女ではないということは男か。しかし、野蛮であれば男でもない。ならば何かというと、人間ではない。<イット>なのだ!」
と、まあ熱弁を振るって出し物を決めた。呆れたクラスメートは、サボタージュ。わずか数人の仲間しか得られなかった。
 それでも踏ん張った。脚本を書いた。どういう話かというと、我慢して読んで頂いて恐縮だけど、こんな話だ。
 時代は今日か、明日。狂ったコンピュータが発射した核ミサイルが、日本へ命中。多くは死に絶えたが、四人の高校生は生き延びてシェルターへ避難した。しかし、限られた食料や閉塞感でだんだんと仲間は狂気にとらわれる。一人は武器庫から拳銃を奪い、仲間を惨殺。全員が死に絶えるが、狂気の若者も、狂ったコンピュータによって自殺を強いられる。
 くだらない。だけど、当時は本気で頑張った。同録とか、編集とかさっぱり分からなかった。拳銃乱射シーンは、撮影前日に観た「その男、凶暴につき」をそのままパクってコンテを立てた。編集もカメラからカメラの原始的編集。音楽だけは凝って、ローリングストーンズや「タクシー・ドライバー」のサントラを引っ張って来た。しかし、どうやってテープに音を入れるのか知らないわけで、しょうがないから台詞も音楽も別のテープに吹き込んだ。
 上映はサイレント。同時にラジカセからテープを再生。それでよし! というものだ。
 出来映え? 酷いものですよ。もう、ラストなんか無茶苦茶。死に絶えた後のコンピュータは、俺のビデオデッキのタイマーのアップで表現。そこにコンピュータっぽい(!?)声色の僕の声が入る。人間の野蛮行為の歴史をラストカット見せていくのだが、図鑑やら新聞だってばればれ。観たひとすべてが「はぁ??」の嵐だったのである。
 この文化祭の失敗以降、僕は完全に凹んだ。
 部活にも出ない、勉強もしない、映画と文学に逃避した。映画を作った仲間はみんな一様に、励ましてくれたが、それ以外の級友からは白眼視された。アホかバカかというものだ。
 やがて冬。
 その年の冬休み映画の目玉は「バットマン」だった。コウモリマークは、我が長崎ではカステラ屋のマークだと揶揄されていた。しかし、僕はプリンスの音楽と、暗いヒーローに期待した。陰惨なヒーロー伝説こそが栄養だった。
 わくわくして観た「バットマン」は、血も湧くわけでもなく、肉が踊るわけでもない、悪意のあるアンチヒーローものだった。美術と音楽とメイクアップと撮影がハリウッド調にアンバランスを起こしていた。ティム・バートンという名前を覚えた。偽装したハリウッド。あからさまな嘲笑と間違った感情移入を目指した映画に惚れ惚れして映画館を出た。
 その足で、僕は街一番の本屋へ向かった。
 原作漫画を手に入れたかったのだが、ないと店員は言う。諦めて帰るか、と思ったが、なにか熱に浮かされているのでもったいない。そこで、文庫コーナーを流した。安岡章太郎の「走れトマホーク」が目についた。しかし.........こういうのは。椎名誠。売れてるからなあ。小林信彦。これじゃない。
 筒井康隆。
 これだ。真鍋博のスタティックな絵。「東海道戦争」。そして、「12人の浮かれる男」。新潮文庫。山藤章二のあくどいイラストレーション。なんだか分からないが、これが求めていた世界だと感じて買って帰った。
 面白いというか、悪意の山積で、ちょっと悪酔いした。
 そこから僕はツツイストの道へ遅ればせながら参加した。
 前置きが長くなった。
 陰惨な高校時代を支えてくれたのは、筒井康隆の悪意だ。
 大学に入って、ドタバタと喜劇的な学園闘争を小規模に行った。挫折した。
 やっぱり帰る場所は、悪意とこう笑の世界だった。
 そして、失業編集者として雑誌のメンバーに加わった際に思いついたのが「メイキング・オブ・筒井康隆全漫画」(現在、「筒井康隆漫画全集」として刊行)だった。
 原稿依頼にお宅へ伺ったときの強烈な印象は忘れられない。
 原宿のお宅は、外見はノーマルな住宅だが、一歩足を踏み入れたら忍者屋敷なのだ。中央に囲炉裏があり、周囲にはサスマタなどが並んでいる。作務衣姿の巨漢。文豪然とした物腰の筒井康隆さんがそこに現れた。話している間は汗が全身から吹き出て、しかも瞬間性健忘症に罹ってしまいなにを口にしたかも忘れてしまう。ただ、ご本尊が目の前にいるということで目眩をおこしていた。
「断筆解除の覚え書きを取り交わすのだけは忘れないで下さい」
 その用件だけはメモを取った。メモの字は判読不明だ。
 それ以降、資料を運んだり、見本をお持ちしたりして伺った。
 だが、目眩や瞬間性健忘症は、ツツイ空間のなかで止むことがなかった。
 「伝説マガジン」担当編集者として、働いていて記憶しているのは、差別取締団体がやってくるのではないかという事態が発生したときだ。この団体は「ちびくろサンボ」の問題で衆目を集めた。彼らがまたもややってくるのでは? と編集部が危惧したのだ。その動揺を筒井さんに伝えると、
「大丈夫です。こちらも引きません。妥協を赦さないことです。表現上、間違いのないことだと肚をくくっていますから」
と仰った。僕も肚を決めた。
 しかし、団体は抗議には来なかった。大事にもならず、連載は続いた。
 表現者の気構えを目の前に見て、僕は学ばせてもらった。
 その後も、雑誌インタビューや「新装版 三丁目が戦争です」の時などで、筒井さんにお会いした。まず最初のとっかかりは、硬い表情だ。不機嫌なのかと思われるほど、恬淡と話す。やがてヒートアップして、話が転がる。余熱があるまま、インタビューや打ち合わせは終わる。なにかドラマチックな感じがした。
 話題が盛り上がるのは、やはり映画の話。ジョージ・ロイ・ヒルの「スローターハウス5」の雪の世界の美しさ、トラファルマドール星の幻想的な空間。ジョン・アーヴィングの原作がいかに映画として成立しているか。アメリカ映画の脚色への情熱。シナリオで一番の傑作はサルトルによる「フロイト」だ。あれは連続テレビシリーズで映像化すべきだ。「キング・コング」は人間を踏みつぶすというシーンがあるからこそ、凶暴と哀切が現れるのだ。などなど。
 お話をよく伺っていた頃は、「パプリカ」も映像化されていなかった。だが、いまはやっと映画界は筒井原作を求めているようだ。「大魔神」のシナリオを書いた筒井さん。流れてしまったことを語る横顔は、映画ファンの落胆が刻印されていた。
 いまだに完璧な、筒井世界の映画は現れてはいない。映画化不能とも思われる、実験的小説群に着手するような制作者が現れるのを強く望む。
 この救いようもないような世の中に、必要なのは悪意とこう笑なのだから。

(つづく)

[2008.1.23]