第8回 作家たち(3)~一回だけの出会い

 ものを書く人たちに会う機会があると、ぼくは少なからず興奮する。会う前に持っている著書を読み返したりしてイメージを膨らます。いまのところ、期待を裏切られることはない。予想のイメージは大きく外れたりするけれど。それでがっかりしたことはない。

<宮部みゆきさんの場合>
 まだぼくが首の繋がった新人編集者時代。座談の立会人として、お目にかかったのが宮部みゆきさんだった。宮部さんは余り、インタビュー的な場所へ出てくる印象はない。依頼状を書いたときも、受けていただけるかどうか半々の期待だった。しかし、それも杞憂で、快諾のお手紙が手元に届いた。
 座談というのは、意外と場所を決めるのが難しい。いまでも「あーでもなく、こーでもなく」と頭を悩ますが、この頃はヒヨッコの新人である。配慮の幅や深さがない。だから、快諾を頂いたらすぐにパニクった。
 困ったらぼくは避難する。隠れて考えをまとめるのだ。姑息だね。その時は、千駄ヶ谷からてくてく歩いて代々木方面へ。ずんずん行ってガード下をくぐって、紀伊国屋書店に行った。そこの雑誌売り場で頭を冷やした。逃げるというのも手である。対談場所がイメージできた。と、いうより「ここなんかいいんじゃないか」と気楽に思い浮かんだのだ。
 「本の雑誌」に山ノ上ホテルの広告がある。その広告には「空気が良い」と売り出しの文句が述べられている。そうなのか。空気がいいのか。じゃあ、ここなんかいいじゃないか。話も盛り上がるだろうよ。と、安直に考えたのだ。
 山ノ上ホテルを座談場所にして、ぼくは早めに対談する和田誠さんと宮部さんを待つことにした。お茶の水の坂を下って、明治大学の手前を登る。すると、古風なホテルが姿を現す。ビビった。なんだか権威ありげではないか。軽く決めたのがいけなかったな、と悔やんだが、お二人の座談者にはいい場所なんだろうと思い直してホテルへ入った。
 真夏のことだったから、吹き出た汗をぬぐいながら部屋へ。部屋は窓辺の緑がきれいなところだった。ホテルマンの案内が終わって、一人きりになったらさっそく椅子にのぼって、エアコンディショナーのほうへ顔を向けた。涼しい.........でも、空気がうまいとは、不調法なぼくには分からなかった。そこへノックが聞こえたので、ぼくは慌てて椅子から飛び降りて座った。和田さんだった。しばらくの間を置いて、宮部さんが現れた。宮部さんの印象は、爽やかなお嬢さん、という感じだ。ぼくよりも年上だけれど、なんというか作家的な権威は微塵に帯びていない、軽快さがあった。話も、好きな映画のことだから、とんとんと弾んだ。でも、話しながらもちらっとこちらを向き直ったり、笑いかけて下さったりして、とても周囲に気を使う人なんだなあと感心した。
 感心したのは印象だけではない。原稿整理して、ある程度お見せできる段階になってチェックをして頂いたが、そのさりげない筆の入れかたがとても良かった。語尾などの整理というよりも、話題への気配りが見える朱稿だった。

<井上ひさしさんの場合>
 井上ひさしさんは遅刻魔だということは知っていた。ぼくの母校である日本映画学校へも講義に来られていた。しかし時間内に到着したことはないという。ただの遅刻ではない。大遅刻であったそうだ。朝九時の開講が、昼に。昼がおやつの時間を回る。おやつの時間が夕食時間に回る。そのつど教務員が、
「いま、先生は小田原を通過しました!」
「小田原を通過、横浜へ到着しました」
「なぜか浅草橋まで行かれたそうです。いまからUターンします!」
と報告に来る。と、いうことは井上さんはいちいち学校へ電話しているということだ。大変なものである。
 そういう伝説を知っていたから、井上さんと和田さんの対談は時間内には始まらなくても驚くことはなかった。和田さんも旧知であるから、落ち着いてらした。
 三〇分ほど遅れて現れた井上さんは、姿を見せるなり、すかさず、
「これ、鰺の押し寿司です。和田さんと岸川さんにと買って参りました」
と一声。うやうやしく、寿司折を謹呈してくださった。名人だ。ぼくは、嫌みではなく、本当に感心してしまった。
 だけども感心は、これだけでは終わらない。
 井上ひさしと言えば、座談の名手だ。対する和田誠さんも名うての聞き上手。このご両人の対談は、さしつさされつの名勝負を見ているようなものだった。話題は市川崑の「おとうと」という映画についてだが、話は大正時代のグラビアのことから幸田文の原作、はてまた岸恵子の芸歴から菊田一夫論まで飛び出す始末。これをどうやってまとめたらいいのか、聞きながら不安になった。そのぼくの不安を名人二人は嗅ぎ付けたのだろう。
「大丈夫です。この座談は、まるのまま起こしていただければいい。それを整理し完成するのはこちらできちんとやりますから」
と、優しくなだめて頂いた。そして、その約束の通り、見事に濃い座談を捌いてくださった。整理術のすばらしさは、図抜けていた。パソコンを一切使わず、原稿用紙を使用した切り貼りでカットアンドペーストしてあった。重複を避け、話題を寄せ、また寄せきるだけでなく、すこしだけ話題を散らして座談の主要モチーフを作り出す。それは「芸」というものの見本であった。いまだに、この原稿を見たときの衝撃は忘れられない。

<長部日出雄さんの場合>
 長部さんと言葉を初めて交わしたのは、「映画評論の時代」の編纂中だった。採録許可を得るために、八方電話をかけたり手紙を書いたりしていたときだ。思い出したが、加藤周一さんにお電話したら、すごい声音で、
「佐藤忠男が編纂の一人なら原稿はいらん、名前だけで信用できる! 以上!」
と言われた。びっくりした。腹の底からの声で電話で話した経験は絶無だったから。そうそう、片岡義男さんの時は別の意味で驚いた。
「あー、テディの名前で書いた奴だね。よく覚えてないけど、あの頃の原稿だから見直さなくてもいいよ。載せて下さい。テディ片岡で書いたものか。よく探したものですね」
と、もう渋い声で許諾の受け答えをなさった。なんだろう、世の中にはカッコいいものってあるんだなあとため息をついた。
 閑話休題。
 長部さんは原稿の採録許可をくださった。そして、
「若い人がレスペクトの精神で過去の評論を検討し直すというのは意義があります。苦しい作業でしょうが頑張って下さい」
と励ましの言葉まで頂いた。ぼくは棟方志功の評伝や小説、ルポルタージュ、コラムを耽読していたので感激した。金がなくて、生きていけないときだったので、なおさら励みになったものだ。
 そして、本が完成した時に、労をねぎらう趣旨のお葉書まで頂いた。泣けて来た。しかも、ご自宅に招かれてしまった。勿体ない話だ。
 成城学園前のご自宅は、こざっぱりして清潔なマンションだった。書斎には文庫や書籍が明かり取りの邪魔にならない低い高さで並べられていた。奥の応接間で、長部さんと向かい合って座った。なんというか、文士のたたずまいとはかくあるや、と端然と座っておられる姿に感じ入った。お話は楽しかった。というかぼくが完全にうわずった調子で喋っていた。そしてこの時の会見は、「オール讀物」の「紙ヒコーキ通信」で紹介された。その時の記事はいまだに宝物だ。

<故・都筑道夫さん>
 最後に、都筑道夫さんのこと。
 ぼくは都筑さんの小説、そして推理小説評論の大ファンだった。都筑さんは推理小説界の神様的存在である。「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」(現在のミスマガ)の初代編集長だった方で、ポケミスの創刊も立ち会われた。さらには「SFマガジン」などの早川SFを福島正実とともに生んだエンターテインメント小説の功労者だ。実作もまた、さまざまな技法を駆使して素晴らしい。
 新人編集者になって企画した書籍に都筑さんの「紙の罠」などの復刊があった(結局は馘首されたため叶わなかった。いまの光文社の本はどなたか心あるひとの企画だろう)。そのお願いの手紙を書いて、電話をかけた。
「手紙は読みましたよ。ええ、ええ。遠慮なく出して下さい。ところで、あなたはフリースタイルという会社を知っていますか」
「いえ」
「じゃあ、教えますから連絡してご覧なさい。きっとね、話が合いますよ」
 教えていただいた番号にかけると、フリースタイル代表の吉田保さんが出た。あれやこれや話を聞いていただいて、志の高い出版社が現れたなあと思った。
 その後、出先から戻ると事務の人が、
「岸川さん。都筑さんから電話があって、今日の会合は行けないからって伝言がありましたよ」
「え、伝言?? ぼく会合なんて企画してないなあ」
怪訝であったので、ぼくは都筑さんに電話した。すると、
「ほーそいじゃ間違えましたね。じゃあ、お手数ですが吉田さんへ電話しておいてくれますか」
となった。ぼくは吉田さんに伝言した。すると、その会合に誘われた。それが吉田保さんとの初対面になった。
 ぼくは都筑道夫さんが、とても好きで敬愛していたのに一度も直接お目にかかる機会を得ることが出来なかった。最後は、ハワイから帰られてあちらで観た「007」の新作の話だった。
「とにかく新作をご覧なさい。あれは悲劇ですから。悪役が痛覚をなくした男というだけで、素晴らしい着想と造型です。しかも、兵器の洒落の利き方は、先祖帰りしていてとても楽しめますからね」
そう仰っていた。ぼくはさっそく観た。面白かった。都筑さんが取り上げる映画で損をしたことはなかった。
 しかし、その名伯楽もこの世を去られた。娯楽という一言で言えるけれども、奥の深いものを見いだせ得る天才を持つ方は、もういない。

(つづく)

[2007.11.21]