第6回 作家たち~橋本治篇

 インタビューの仕事、編集者として同行取材した仕事、この二つを本稿の縦軸にしようと企てたわけだけども、なかなか対象者の面白みを引き出せていない。いままで書いたものを読み返すと反省すべきところが多く感じる。なので、今回から数回は様々なる作家との出会いと印象を述べようと思う。
 僕が仕事でまず出会って「作家」を感じた人物は橋本治だ。
 橋本治と僕は縁がないわけではない。あちらはこちらにとりたてての縁はないが、僕には大アリなのだ。
 高校二年生の頃だった。長崎の山猿であった僕は、いっぱしの映画少年、文学少年を気取っていた。いま考えると恥ずかしい。映画と言えばスピルバーグから始まり、キューブリック、黒澤明、ペキンパー、スコセッシ、レオーネ、ベルトルッチを知り初めていたばかり。大概は「リバイアサン」やら「バトルランナー」なんかのくだらない暇つぶし映画を愛好していたが、そんなことは人前では見せぬ。青春時代、なにより体面が大事なのだ。文学もそうだ。芥川龍之介、川端康成を贔屓にして、あとは山本周五郎や司馬遼太郎を耽読していた。漱石は「三四郎」「それから」を読んだくらい。まあ胸きゅん小説として、読んでいたのだから浅はかだ。たったこれだけの浅学の若者が、でかいツラを下げて校内を闊歩していたのだからあきれる。が、それだけ僕の高校時代、読書する人間は少なかったわけである。
 さて、そんな眼鏡をかけた山猿の前に現れたのが、荒俣宏、橋本治の両人であった。なんで片田舎の高校に姿を現したのかというと、文化の日を前に、創立何周年かのイベントとして今をときめく作家を高校生の目に触れさせようという、いたって安易な企画によってであった。
 体育館に集められた、僕たちの目の前に現れたのは、髪がぼさぼさ、ヨレヨレのサマースーツ姿の異相の人物。そしてアロハを着た、短髪童顔のおっさんであった。異相の人物が、ぼそぼそと独り語りのように長崎についての博学な話を進めはじめた。司会を無視してだったと思われる。いきなり本題だった。ぼそぼそぼそぼそ。はは〜ん、これが荒俣宏かぁ。と、僕は身を乗り出して観察した。中学校三年生の冬に「帝都物語」を読破した身からすると、このぼそぼそ異相の人物は、僕が勝手に期待した最初の作家的インテリイメージ(中沢新一あたりか)と真逆で驚いたが、かえってその貧相さが好ましく、目の前で見られて嬉しくなった。話はさっぱり聞き取れず、印象には残っていない。おそらく、とんでもないマイナーな長崎史を語っていたに違いない。そう考えると、最近の荒俣宏の喋りは、刻苦勉励の賜物なのだろう。
 続いて登壇したアロハ男が、橋本治だった。「桃尻娘」男である。題名だけで判断していた僕はエロ作家だと断じていた。ところが、開口一番この男は、
「だいたいぃ、こういう仕掛けでぇ、講演をさせようっていう学校って、正直、しんどい学校なんだろうなーって、ここで立ってみんなを見てると、つくづく思うわけ」
と来た。入学してしまった頃から「しまった」「人生一代の失敗」と考えて過ごして来た山猿は、この一言で座り直した。
「田舎の高校ってさぁ、やっぱり東京の文化人って奴を、本質的には嫌いながらも呼んでしまうという悲しい性があるのね。これは高校に限らず、かな。日本は地方で出来てるの。東京だって動かしているのは地方の人。本質的に嫌いな街をコントロールしてるのよ、嫌いな人が。で、故郷も倍くらい嫌いなわけ。なんかやっぱり日本ってすんごく貧しい悲しい国なんだってことを実感しちゃう。だから、みなさんはそんなにも悲しい国と故郷を抱えて、都会に出てやろうと、根は明るくもないのにはしゃいじゃってるっていう、ね。しかも、なーんにも物を知らないわけだから、先生たちよりずっと悲惨な感じなわけですよ。受験っていう無意味な戦争もやっててさ」
 どんどんどんどん、言葉が出てくる。巨大な尖塔が立っている。そこの頂点は折れ曲がって、マカロニの口のようにがらんどうだ。その空洞からどくどく、どくどくと拍動性の汚水が流れ落ちていく。そんなイメージを山猿である僕は持った。日記にそう書いてある。
 学校に取っては、のっけから毒を流されてしまった。国語教師が蒼くなっているのが可笑しかった。
「......くだらないわけ。あなたがたは、ぼくらの世代の子どもなわけですよぉ。それって現代史的には、最悪の状態をもたらされているのね。だってさ、団塊の世代って、堺屋太一って元役人のおっさんが、決めた言葉を背負ってる世代って、暴れたけど、でっかい文化祭で暴れたけど、本気で暴れた奴って少なかったわけですよ。いるでしょ? 準備してる時は、すぐ部活や塾に行く癖に、本番だけ盛り上がって後片付けすらしない、やな奴。ね? 多いのよ。そういうのが。それがそっくり、団塊のおじさん、おばさんがやったのね。だから日本はとっちらかって、とっちらかったまま、子どもを産んだの。君たち! そう、それで団塊のひとって後進を育てるのってひどく苦手でさあ。理屈をつけてほったらかすか、抑圧するかしか出来ないわけ。抑圧ってのは典型が日本赤軍って、すげえ、フィクションな連中で。彼らはとにかく悲しい事に抑圧を学んだわけ。で、リンチしたりして殺し合いをした。そういう方法しか考えていない。勉強が嫌いだったわけですよ、大半は。勉強嫌いだから、考えない。そんな考えない子の子どもたちであるあなたがたはひどい悲劇なのよ」
 橋本治は止まらなかった。とにかくフルで一時間半、地方の進学校のフィクショナルな足場を突き崩す事に費やされた。そして、物を知らない僕らは、大方、眠ってしまった。僕はわけが分からないが、展開されているのは現代史講座だと感じた。それ以上は思考が停止していた。
 講演が終わると質疑応答だった。そこで思想的には不感症のくせに、いやにバイタリティだけぎんぎんしている優等生(いませんでした? 学校の体制にべったりで、空気の読めないクラス委員のやつ。それがこいつ↑です)が登壇し、いきなり、
「日本にまたヒトラーのような人間が出て、ファシズムは起こりますか」
と質問した。バカな奴だった。「我が闘争」しか思想書の類を読んでいないくせに、インテリぶるこいつ。ああどうしてるんだろうな。Aくん。学校委員室で、一人エロ小説を読んで、黒いテントを張っていたのを、僕は覚えているよ。東大かどっかへ行ってしまったよね。
「そういうさあ、バカな質問を、やっぱしやってしまうところで悲しいんだけど、あなたはファシズムがまた起こると思っていってるの?」
橋本治は投げ返した。Aくんが、しどろもどろになってしまったことは覚えているがその後のことは記憶にない。しかし、橋本という人が相当な人物だという印象は鮮明に残った。
 その後、僕が編集者として「光と嘘、真実と影」(河出書房新社)を手がけたとき、橋本治と再会したのだった。再会と言っても、仕掛けたのは僕だ。あれから十年近く経って、僕は、司馬や周五郎から離れて作家・橋本治にどっぷりと浸かっていた。本の趣旨は市川崑を語ろう、というものだったのですぐに思いついた。映画「東京オリンピック」をベストに挙げていた事を知っていたのだ。
 対談のホストである森さんと僕は千駄ヶ谷の駅改札で、橋本治と落ち合う約束をした。夏の夕暮れ時だった。御苑の方からカナカナカナカナと蝉の声がし、風も熱風から木を渡る冷たい風に変わっていた。あっと思った。改札口前のガードレールに座ってタバコを吹かす男の背中。黒地に黄色と赤と紫の模様が踊るアロハ。橋本治だった。前に回って挨拶した。顔はぼーっとしていた。
「橋本さん、僕は長崎県の高校生の頃、講演会で話を拝聴しました。バカ学生だったので現代史講座かなくらいしか思えなかったけど」
「あー! あれ高校なんかでやったの、初めてでねー。しかも最後なの。へー、あの高校にいたんだぁ。サイテーだったでしょ」
「最低でした」
「あははは。そお。いや、なんか変なツナガリっていうのが今日はあって、『東京オリンピック』を見て、その前にいまやってるマラソン競技をみてね。なんか隔世の感があったのよ.........」
駅前から、のっけから、橋本治の思考の運動が始まった。話題は、映画と東京の街殺しについて、そして演技論にまで広がってとめどもなく、とりとめもなく時は過ぎていったのだった。
 僕にとっては、この再会は仕事として成功した。そして、改めて思想家、作家の橋本治に最敬礼をしたくなったのだった。またいつか、大きな仕事でご登板をお願いしたい。

(つづく)

[2007.9.20]