最終回 訊くってなあに

 さいきん、僕は母校の日本映画学校で教鞭をとっている。まあ、食い扶持の少ない僕を心配してくれた恩師の思いやりではあるのだが。
 そこで二年生のドキュメンタリーゼミの実習を見せてもらった。よくは伝わらないかも知れないが、その批評をひいてみる。


「無力無善寺」
 題材となる、ひと。これは、表層で、目の引きやすいタイプの被写体だと僕は思う。
 この場合、被写体、と敢えて言う。
 なぜ敢えて言うか。それは、撮影者と撮られているひとの距離があまりに遠いからだ。撮影されたサイズも、そしてのめり込みかたも。短い製作期間に濃い関係を作るのは酷かも知れない。で、あれば、過ぎ去っていく過程のあるひと、として描いていく方向もあったような気がする。
 このテープの記録は、人物をなぞったもの。撮った人間の横に生活はあるかというと、それはない。芸能のなかに生きるひとなのか、パフォーマンスがなければ死ぬようなひとなのか、見極めも曖昧だ。それに対しての判断を保留したまま、形にこしらえたという印象は拭えない。
 その意味で、すべて引きずられて出来上がったものに見える。
 強い主体、相手に負けない個性、または卑屈なまでにエゴを引き出させる取材方法をとるべきだった。
 また出来上がりはこういうスタイルなのだと言うフォルムの見取り図は必要だったと思う。
 技術面で言えば、編集のテンポ、カットの変化が数フレーム緩い。

「都営戦隊オーエドマン」
 端的に言って、惜しい作品。なにか爆発しそうで、しないという感じが残る。これは残念。扱う題材は、この尺数で合ったものだし、ひとも適度なところがあっていい。だが、それをどう料理するかに迷いが見える。
 オーソドックスな話。イベント成功で終えるようなもの。
 モチーフを編集構成で、まさに戦隊もののように見せるもの。
 そのどちらにも成功し得ていないのが、本作だ。
 視点の問題、撮った側の主体性の問題が浮き彫りになる。
 趣味もまた主張である。その意味で、この作品は選んだ題材は趣味で、出口が学習なのだ。主張の変節は明らかだと思う。
 技術面では、堅くいっているが、撮影・編集に工夫がない。構図まで練って完成作品のフォルムを想定すべきだと思う。

「生きるちから」
 本作は王道の域にある。
 制作者側の姿勢が、一般人には受けがいい、礼儀正しいものだ。マナーがある。対象者のひと。
 傷ましくも感動的だった。家族の関係も短い時間で伝わる。
 そう言う意味で作品を「こうですよ」と伝える力は備えている。
 語る力がある。これは大きな武器だ。
 だけども居心地が悪い作品だ。なぜか。
 それは撮影者と相手との距離の微妙さだ。冷静な観察をキャメラは行っているその官僚的なスタイルだ。
 オーソドックスなスタイルで、苦難に立ち向かう姿を撮影するとこうならざるを得ない。それは、確立された「映像文法」だ。だけども、その文法へ懐疑していないというのは、学生としてどうか。観察者の冷徹さに徹するならばフレデリック・ワイズマンほどの文法を援用すべきで、この公共放送的なまなざしに、生きるちからは与えてもらえなかった。その意味で早くも洗練された作品なのだとも言える。

「ヨンチャ! ハルモニ」
 団体を追いかけ、歴史的背景を追いかけていたら、ほんとうに描きたかったひとを落っことしてしまった印象の作品。
 インタビューは、歴史や出来事、身の上話を拾う。それは散文的で、まとめに入ると非常に公式的になるものだ。今回、とくに施設の沿革や歴史背景を描く時間をもっと短縮すべき(スーパーインポーズ、声だけ、写真によって短い導入部を作成する。僕ならば)だったと残念だ。
 なんとなく撮る側の主体意識が出そうなところはあったが、やはり背負うものの軽さを意識して全身でぶつかっていかないでいる。その怯懦の意味を噛み締めて欲しい。
 さらに、ここには、引っかかる何かは描かれていない。なんだろうとイメージを喚起するシーンは与えられていない。官僚的映像スタイルのなかで、主体は、撮る相手になにを与えるべきで、なにを与えられるべきかを考えることを放棄したようになっているのが、気にかかる。
 構成の甘さと取材者への主体的な考えのなさが、決定的な印象を与える。

「いちばんでいること」
 題材としては、ヒドい言い方だが、よくあるものだ。
 それをどういう意識で、撮った側は見ているのか、気になったところ。
 撮影された画面の印象で、撮った側は、とても相手を尊敬している。
 仰ぎ見ている。
 かっこいいと思っている。
 それが伝わる。
 作品としては隙間だらけだ。インタビューなど画の少なさは驚いた。
 だけど隙間が邪魔ではない。むしろもっと隙間のある解体寸前の画面が続いていても最高なのに、と悔やんだ。
 つきあい、という形では五作品のなかでは頭一つ出ている。それが好印象を生む。映像スタイルも生んでいる。
 ただ、惜しむらくは、かっこいいなと見とれすぎて、若者としての主人公が多面体に描かれていない。撮った側と撮られた側はまだ友人ではない。そして、ずけずけとあがりこみ山積みの漫画などをとりあげてだべったりしない。この行儀よさ、そして尊敬のまなざしは、長い作品を作ると逆差別を生む危険性もはらんでいる。
 もっともっとだらしなく、とめどもない青春をお互いに交歓しあう作品を見たかった。


 みんな真面目にインタビュー中心の作品をつくっていた。だけども、その訊くということに、とっても無自覚なのだ。相手がこういう「素材」であるから、その「素材」について訊く、と。これではなんだか無味乾燥なものになってしまう。
 インタビューというものの面白さはなにか。豊穣なるインタビューとは。
 それは僕の狭い経験で言うと、普通に会話出来るか、となる。相手はなにを訊かれるか、やはり緊張するものだし、考えているものだ。そこへ、斬り込む方法もあるのだろうが、僕の流派とは違う。僕はなるだけフリーハンドで、向かう。
1 時候の挨拶。髪型やらも誉めたり、けなしたり。その場の環境の話。
2 じゃあ、すいません。まずは、きかにゃあならんと言うことを少し伺います。
3 ありがとうございました。それにしても、なんですね.........と相手の話題を訊く。
4 3で出て来た内容で議論する。
5 そこでオフカット的な、関係のない話もいれて雑談。辞去する。
 こういう流れだ。ほとんど仕事に来たというよりは、そのひとと雑談しに来たのりだ。
 そこで持ち帰った話題を整理する。
 2がスジになる。
 で、スジに枕をつけるため1を活かす。
 肉をつけるために5を入れる。
 急ぎ足になるのを避けるため、話題のブレーキで3を足す。
 で、葛藤を生む4で、クライマックスをつくる。
 こういう流れにして行く。まあ、帰納的にも演繹的にも構成は変えて行くけれど、形の基本は上の5つを崩さない。
 でもこれは形式的な方法論。
 もっと大事なのは、相手を人間に見ることか。
 とにかく、このひとも飯を食い、性交し、糞もするということを実感するまで喋ること。
 そのためには時間もかけなくてはいけない。
 これで、この一期一会の仕事は終わるわけだ。
 どうしても学生は、そこらへんを構える。構えたら、あっちも構える。それでは理知と理知がぶつかってカドが出来る。喋りの面白さは「まろみ」だ。「体温」だ。それが伝わって、発見があれば、とっても得をした気になる。読書だって一夜の夢。対談本、インタビュー本の魅力は、一夜の夢ならぬ昼寝程度でいいのだ。濃すぎてもイケナイ。だからといって浅すぎてもイケナイ。白昼夢であるべきだ。
 語ると疲れる。どーんと疲労して、その日はガタガタになる。それは相手の風に吹かれたせいもあるだろう。風を呼ぶには、いにしえの儀式のように、裸になって迎えねばならない。一心に。自分を懺悔し、さらけ出し、知りたいのだ、と祈るのだ。すると天啓のようなことばが降りてくる。これで仕事は成るのである。
 インタビュアーは、現場では巫女であり祭祀を司らねば成らない。
 そして原稿に向かうときは、白昼夢をつくるひとでなければならない。そして歴史編纂者のように暗く沈みこんで、ことばを拾い、事実と照合する。そして、事実よりもことばを尊重するのだ。そういう意味では偽史編纂者である。
 さて、ここまで僕は個人史的に、舌足らずでインタビューにまつわるあれやこれを書いて来た。
 その中葉の集大成が新藤兼人「作劇術」(岩波書店)だ。これは、ほとんど老師によってことばの波を起こされて、たゆたうように仕事した。いままでの方法論は役立たず。とにかく書生となって教えを請うという、山上の垂訓を受ける使徒となった。それを文字にしたら、その一世紀に渡る仕事に溺れ込んだ。これは独りの仕事では、出来ないものだった。
 まだ未熟だったわけだ。
 そこを助けてくれたのは、小野民樹という、世間話と歴史観、映画観を自然につなげることの出来る異能の人だった。
 そこで気がついたのは、インタビュアーは、相当の知性を磨かねばならないということだ。面白いはなしが出来る人はダメだ。それは、お安いライターである。面白いかどうかよりも、この、いま語られていることが、歴史と社会においてどういう位置にあるかを見抜く慧眼が必要なのだということだ。今様のインタビュアー、インタビュー本ほ、安易につくられるだろう。だけども、それらは残らない。駄本である。それはそれで愉しいが、やはり書物というものが残るためには、多くの知性を動員出来る者であるべきだと思うのだ。
 上っ面だけの話。
 それを回避して、なにか、エッセイでもなく、小説でもない、ことばの記録としての聞書き本は輝かねばならない。
 長くおつき合い頂きありがとうございました。読者のメールも有り難かったです。そしてこの場を与えて下さったgojoさんにお礼申し上げます。

(完)

次回から本年僕が撮ります商業映画の原作「フレッシュ!」を掲載させて頂きます。
かわらぬご支持を頂ければ幸いです。

[2008.2.25]