第4回 その名は「伝説マガジン」の巻 (その1)

 会社をクビになった。
 ぴゅーんと僕のホソッ首は千駄ヶ谷の国立競技場前の側溝に堕ちた。
 堕ちた首はサッカー観戦のフーリガンもどきたちにグシュグシュとドタ靴によって踏みつぶされた。
 僕は即日馘首というやつだった。一回目に書いた「山上龍彦全集」でのトラブルが原因だった。
 会社側は五十巻は続くこの全集に社運を一時はかけたが、販売する体力がないと判断、出版は先送りされていった。その処置を不審に思った作者が内容証明を会社に通達したのだ。その間、僕は会社側と作者側を混乱しながら行き来し、なんとか二月の出版にまで漕ぎ着けるか? というところまで交渉は進んだ。だが、この一件が文字を中心にした出版事業を進めたい一派と漫画と復刻を主にしたい一派の内紛を呼んでしまった。混乱に混乱を重ねて結局、犠牲者を進んで出すことで落着をということになったらしい。その犠牲者は僕だった。まあ混乱の渦中にいたわけだから、加害者でもあるのだが。
 とにかく退職金なしで放り出されて、路頭に迷った。
 しかし、食っていかねばならない。身一つならば、自暴自棄に陥ったかもしれないが、そのとき既にいまの妻と同居していた。簡単に生活は放棄できない。僕は仕事を求めて、東京の街を右往左往する。
 その間の東京ロビンソン生活で見つけた仕事、というか食うに困った孤島の渚に漂着した仕事というのが「伝説マガジン」(実業之日本社)という名前の雑誌の文字コーナーページの編集だった。
 おりしも、「コミックバンチ」などの復刻ブームのさなか。さらにコアな作品を復刻、そしてパート2を掲載することを主眼にした雑誌だった。
 編集長のYさんと僕とは前の会社でお会いした仲だった。わずかな縁だったが、Yさんに僕の現状や抱えている企画のことを相談した。その中で、「伝説マガジン」の話が浮上したのだ。
 主なものは漫画だが、それ以外の読み物も充実させたいということで、いくつかのコーナーのアイデアを出し合って僕が担当するページも決まった。
● ミュージシャンへのインタビュー
● 漫画好きの著名人へのインタビュー
● 筒井康隆の漫画家時代回想録と復刻漫画掲載
● 漫画の懐かしクイズ
● 漫画に関するルポルタージュ
の五つだ。
 ミュージシャンのインタビューは、トライセラトップスの和田唱さん。彼が漫画好きだとどこかの雑誌で読んだ覚えからインタビューを依頼した。事務所がやや大きいから交渉は難航するかと思ったが、意外に即オーケーが出た。
 著名人のインタビュー「漫画しか頭になかった」(これは植草甚一の本「映画しか頭になかった」からのイタダキだけど)は、「山上全集」で埋もれる羽目になった塚本晋也監督の原稿を復活させた。
 筒井さんにはコンタクトをとる手段が分からなかったため、愛読していた「噂の真相」の編集部に電話をかけてメールアドレスを教えてもらった。名前は存じ上げないが、教えてくれた編集部員さん(女性だった)の優しさには泣けた。その直後に依頼を行った。すると快諾の知らせ。ただし、当時断筆解除していた筒井さんは、取引を始める出版社と覚え書きを交わすことにしていたので、これが条件でということだった。
 懐かしクイズは僕自身あまり漫画に対してコアな知識がないので、神保町へ日参して古い漫画雑誌を漁って付け焼き刃の知識を貯えた。
 漫画ルポに関しては、当時映画の助監督を辞めてブラブラしていたノンフィクション志向の友人、山辺健史を口説き落として参加してもらった。その連載の詳細は「マンガ世界の歩き方」(岩波ジュニア新書)で読むことが出来るので、御暇があったらぜひ。
 こうして隔月刊の「伝説マガジン」はスタートを切った。
 テレ朝「トゥナイト2」からも取材を受けた。なかなかの好評も得ることが出来た。
 しかし慣れない連載仕事であったためインタビューはかなり苦戦を強いられた。
 まずやはり、人選が難しい。渋すぎてもいけないし、かといって大メジャーな人には断られる。あーだこーだと動いていくうちに結局、期限ギリギリになる。休刊になるまで七回のインタビューはいつもてんてこ舞いだった。
 そのなかで大きなポカを一つやった。
 泉谷しげるインタビューがそれだ。
 泉谷さんは言わずと知れたミュージシャンであり俳優だ。その一方で、漫画、しかもかなり精緻な絵柄のものを書いている。この人を、と思ったのは「宝島」のバックナンバーでの記事だった。とにかく熱くフランスのビザール漫画からアメリカンコミックス、はたまた鴨川つばめまでを語っている。自信の人選だった。
 交渉もうまく行った。相手のマネージャーさんも快諾。日程も決まった。だいたいインタビューの所要時間は一時間である。一時間はちょっとインタビューには短い。その内部まで読者に御見せすることが出来にくい。かなり準備していかないと、まともな記事は書けないのだ。
 つまりこの場合、知識で埋めていくインタビューになる。
 僕はこの知識埋めインタビューが最も苦手とする。資料と資料の行間を使って、その人となりを浮かび上がらせることには血道をあげられる自信があるのだが、いかんせん知識と知識の応酬になりがちなインタビューは満足行かない出来になる。その意識がもろに出たのは伊集院光さんと仕事をした「球漫」(実業之日本社)だ。一冊の本として、頑張ったがインタビューとしてはちょっと歯がゆい思いをさせられたものだ。
 泉谷さん対策として文献はあたれるだけあたった。だが......。
 予定の日、ドラマの収録が入り順延。
 さらに再設定の日。やはりドラマで順延。
 最終、デッドロック状態の日、健康不良で中止。
 焦った。
「すいません。何度も順延していただいて本人もやる気なんですが、どうしてもダメなんです。出来れば次号で登場というわけにはいけませんか」
 マネージャーさんの声を僕は小雨ふる下北沢駅南口のガード下で聞いていた。
 頭は真っ白け。今日を外しては間に合わない。しかも代わりのメンツはいないのだ。携帯をきると、一気に脱力感に襲われた。はー、これはどうにかしなければ。
 僕はない知恵を絞って編集部のYさんに電話をかけた。
「......すいません。こういう経緯で泉谷さんのインタビューがとれません。泉谷さんサイドとしては以前に語った内容を再構成してインタビュー記事を作ってくれという代案を出してきているのですが...」
「うーん......代わりがないんだよねえ。仕方がないのかな。でもこれはちょっとペナルティになるよね。だってインタビューを創作する訳だから、責任はとってもらうよ」
「はい......すいません」
 仕事場兼自宅に戻った。
 机に向かった。
 戦意は喪失していたが、書かねばならない。ページに穴をあけてはいけないのだ。
 古い資料を読み直して、僕が泉谷伝説をほぼ前置きとして書いて、かつての発言を引用していく方法をとった。いま喋ってきましたというホットなものを捏造する勇気もなく、だからといって深い読み物としての魅力も僕の筆ではとうてい出せない代物になった。
 刷り上がった見本の記事を眺めた。
 一回のペナルティは温情ある裁定だったが、経済的にも、技量のない自分の心にも痛かった。
 ここでへなへなとインタビューから足を洗えば、自分の技量も伸びない。僕は一回休みの間にインタビューとは何かを考えるため時間を使おうと決心した。

(つづく)

[2007.7.22]