第7回 作家たち (2) ~佐藤忠男篇
今回の話題は、我が師匠、佐藤忠男先生のこと。
僕と先生の出会いは、十一年前になる。
僕は大学を中退後、山口県宇部市で、ぶらぶらと職を変えては遊んで暮らしていた。そういう、その日暮らしの生活にじつは倦んでいたのだが、ふんぎりのつかない中腰のままジッとしていた。それがフトした友人のアドヴァイスで、転機を得た。そして上京した。日本映画学校という専修学校に入るためだ。
試験前の年の秋に東京に腰を落ち着けて、アルバイトしながら、映画を漁るように見ていた。この時が一番、映画と自分が幸福だった時期かも知れない。なにせ、街に出たら映画館は選ぶほどあるし、廉価のフィルムセンターもあった。ヴィデオレンタルの品揃えも豊富だった。ぼろの映画館が一軒だけの田舎町から来た僕にとって、東京は映像パラダイスだった。月に三十本は映画館で見て、試験の時期を待った。
明くる年の二月に試験を受けた。面接と筆記試験、作文の三つの項目だった。面接では、
「名前を書けるか」
「我が国では道路はどちら側通行か」
「母親と父親、どっちが子を産むか」
くらいの質問だった。考えようによっては難解である。
筆記試験は、「七人の侍」は誰が監督か、とか岡本喜八はどういう映画を監督したかなどの基礎の映画的素養を問うものだった。そして最後の作文は、ひとつお題目が出て、その題目から触発された作文を八〇〇字で書くというものだった。たしか、お題は「花火」だったように記憶している。僕は何を書いたか忘れてしまっているが、尻に線香花火をつけた若者の話を書いたような気がする。
試験はパスした。四月に無事、入学式を迎えた。
その式で印象的だったのは、「うなぎ」クランクイン前の今村昌平理事の挨拶だった。
「えー、諸君は青春の大事な時期にこの学校に入ったわけだ。ね。ということは、精力も扱いかねるほど保持している。その精力を映画だけではなく、閨中の秘技にも注ぎ、世界をおおいに広げて見てもらいたい」
と、いうものだった。独特の漢語まじりの言葉で、表情ひとつ変えずに飄々とセックスを奨励する理事長は、はなはだ、魅力的に映った。
その挨拶の後、新校長として就任した佐藤忠男が演台に立った。言葉数は少なく、眼光も鋭く、豊かな白髪をなびかせた批評家は、おっかなく思えた。
「あれが佐藤忠男かあ」
と、思った。
佐藤忠男という名前を知ったのは高校一年生の頃だった。「スクリーン」などのファン雑誌にも飽きて、もっと鋭い映画雑誌を物色していた。「キネマ旬報」はすでにこの頃、業界誌的になっていてつまらなかった。そうなると自然、足が向くのは古書店だった。そこで出会ったのが「映画評論」という雑誌だった。埃臭い古書店の隅っこに、それらのバックナンバーが並んでいた。一番はじめに読んだのは、大島渚に関する佐藤忠男の文章だった。無名だった大島を、新しい日本映画の可能性として褒めたたえるものだった。だが、いまの褒める文章と大きく違い、作家論でありながら、矛先は停滞する日本映画界に向けられ、そのさらに向こう側の射程に、現代日本を据えているものだった。戦闘的という言葉がふさわしいものだ。一読してしびれた。こいつはすごい。そう思った。
それから買い求めた「映画評論」と併せて「黒澤明の世界」「小津安二郎の芸術」「溝口健二の世界」「今村昌平の世界」を小遣いをはたいて読んだ。
佐藤忠男は批評家としては、はじめ、私小説作家的な書き方で、その地歩を固めた。「斬られ方の美学」など、初期の批評は私世界から斬り込むようなものが多い。きらびやかな映像世界を見ている一生活人は、このように塵芥にまみれて生きている。そこから見る映画は、どのように心理に影響を与え、なおかつどこがリアルなのかを問う、というものだった。これは画期的に思えた。
理屈先攻型の批評ではなく、文章の中に息づいているのは肉感的なものだった。こういう体験があった私は、この映画をこう見るのだ。ハッキリとした目線がある文章に、僕は目を開かれた。その後、私世界の目線に資料解析の力を加えて、他の批評家には書けない、確固たる方法論を身につけていったように思う。それは「長谷川伸の世界」「草の根の軍国主義」などに顕著に見られるものだ。
その書き手が校長になった。佐藤校長は、授業を持っていた。映画史の講義だ。この講義がすこぶる出席率が悪かった。映画学校というものの生徒は、映画が苦手なのである。というより、古典を観るという行為は新作よりも重い、新作は気楽に語れるけれど古典の場合は背景がある。その背景を知らない自分には重ったるいのだろう。だからあーだこーだ理屈を並べて、若い学生は来ない。僕はというと、その辺の重さが分からない。分からないも何も新作同様に観てみようという気持が強かったため皆勤した。
当の佐藤校長は、学生が三名そこそこだろうが、内容は微動だにせず、資料を小脇に抱えて滔々とネオレアリズモ運動のことや成瀬巳喜男の日本的叙情と非情についてを語った。僕は聴衆の少なさに、僭越だけども罪悪感を感じた。こうまで頑張っている校長の授業に、なんとか報いたいと考えた。そこで始めたのは、授業の録音と文字起こしだった。学校から録音機を借りて、のっけから収録し、土日にかけてその内容を文字に起こした。これを私雑誌のような形で公にして、授業に来ない学生も、貴重な講義に触れることになればと思ったのだ。
けっきょく時間に追われて、講義録を佐藤先生に見てもらって朱筆を入れてもらって学校に寄贈することまでしか出来なかった。そのころぼくはワープロすら打てなかったのだ。それでは私雑誌もガリ版でやる他はなく、そこまでの根性の持ち合わせがなかった。そこまでで限界だった。
限界に悔し涙は出たが、三年間の講義録は貴重なものになった。資料的にも、それは重要なものなのだが、佐藤先生との交流がその作業の上で出来るようになったのも大きい。授業が終わって講師室で最近観た映画の感想を述べたりした。
「『うなぎ』はあれ、校長が言うようにファンタジーですね。それを考えると、今村昌平は昔から幻視にこだわった作家だったでしょう」
「そうね」
「そういう意味では、今村昌平って幅の広さがあるわけですよね。いわゆる古典的巨匠に収まらない、リアリズムを跳躍するっていうか」
「そうだね。そういう事にもなるね」
という、僕からの一方的なものだったけれど、話は二時間にも及んだりした。聞き手に佐藤先生は回っているようでも、細かいところでその持ちうる教養を差し挟んでくれた。だから帰る頃には、自分の狭い了見が少し、広がっているような気がするので、とても有益に思えるのだった。
批評も丁寧に読んで下さった。当時、映画学校で雑誌を発行していたので、それに寄稿したのだ。内容は日本テレビのバラエティ的ドキュメントの傾向から、現代の脱家族の心理を読み、過去における家族映画の系譜を検証して、新しい家族映画の形を模索するという、突飛なものだった。枚数にして五、六〇枚はあったかと記憶している。それに対して、速達で「異論はあるが、とても面白く読めました。掲載します」とお返事を頂いた。嬉しかったので、その葉書は大事にしている。けれど、それ以降、ぼくは決して安易に批評の筆は執るまい、と考えた。異論について恐れをなしたのではなく、書いた内容がまだ作として、どうも甘いところがあったからである。
佐藤先生に卒業制作発表会場でどやされたりしたのも、こういった交流の賜物だ。あれから八年たって卒業制作の頃とその後を綴った「オヤジが詐欺師でオデッセイ」を読んで頂いた。するとすぐに電話が来た。夜中だった。おそらく読後すぐの電話だったのだと思う。仕事場の留守電に、
「とても面白く読めました。内容も文章も若く、躍っていてよかったです。また電話します」
とメッセージが来ていた。やっと卒業できた気がしますと先生に伝えた。
校長は、口数が少ない。電話では一言、二言だ。見た目も怖い。ぐいっと真一文字に引き結んだ口。眼を容易に合わしてくれない。だけど、その心根は温かい人だ。苦労人の優しさが滲んでいる。
「『映画評論』の時代」発刊を計画して、ロングインタビューを行ったとき、毎回思ったのは、その穏やかさと映画やその周辺の文学やそれを生業にする人々への愛情の深さだった。それをべたついた日本語で言わないところが、また、佐藤忠男たるところだと思った。きわめて口調はドライなのだ。ウェットなものになる話も、ドライにさらりと流していく。だけども、文に起こしていくと、そのドライが絶妙の距離を生み出して、優しささえ滲むのだ。
そのインタビューで驚いたのは、詩や小説などの文芸に相当に肩入れしていたことだった。とくに興奮したのは佐藤先生は、師事したのが北川冬彦、愛読し文体模写を行ったのは太宰治だったというところだった。北川冬彦は、戦前ダダイストの詩人として「青空」などで活躍した人だ。「青空」の同人には、三好達治や梶井基次郎もいた。交流の中には、昭和初期の小説の名手、仲町貞子を一時夫人にしていたし、小樽から来た伊藤整もいた。一方で映画の評論も多く手がけている、北川冬彦は才人である。彼にシナリオを送ったりもしたという。佐藤先生は後年、批評家デビュー後、「映画評論」の編集者をやりながら杉山平一にも原稿を依頼している。この杉山平一も詩人である。戦前に活躍して、一時大阪へ戻ったが、新たに戦後息を吹き返し、詩と映画評論で活躍した。高見順が愛好した詩人である。そういう流れから考えると、佐藤忠男の文章の奥底には、詩というものが内包されていると思う。さらには太宰治の「津軽」「惜別」を愛好したというから、向日葵のような文章も、底流に流れているわけだ。その意味合いで、佐藤忠男の膨大な著作を読むと、詩文と批評の交錯が垣間みれる。余談だけれど、最近の著作では佐藤忠男の文体はかなり変わって来たと思っている。目線が変化したのではなくて、諧謔味が増したと思う。文と文と間に飄々とした味わいが出て来ている。作家としておそらく、また化けてきているのではないだろうか。
佐藤先生とのおつきあいも、学生から数えて十年になる。まだまだ学ぶ事は多いし、対外的には、もっともっと多くの読者に親しまれてもいい作家だと思う。だから、不肖の弟子として、毎年毎年、佐藤先生の本を世に問うて行きたいと固く決意している。
先生へ思い入れが過多であるせいもあるのか、語りがとっ散らかったが、とにかく、僕はここで、佐藤忠男は「偉大な作家」であるという事を言いたかったのである。
(つづく)