はじめに

 昨年このサイトに書かせていただいた『キャメラマン 玉井正夫』制作誌の終了後、サイトの主催者であるgojoさんと相談の上「今度は新作映画について書いてみてはどうか」という話になった。毎日のようにどこかで上映される古今東西の映画たちに離されまいと、しゃにむになって見続けるようになってから、気がつけば何のかんのと10年の月日が経っていたのだが、ここ数年は実作に打ち込むようになり(マイナーな小型映画を何本か作っただけですが)、また体力の衰えなどもあって(映画を見続けるには本当に体力がいる)、てんで映画を見なくなってきた。
 まだ見ぬ映画に思いを馳せ、まだ世の中にはあんな凄い映画やこんな面白い映画がある(はず)、と持て余した時間とスズメの涙ほどのお金をあらん限りつぎ込み(「あらん」とたいそうに形容するのがほんとにはずかしい)、毎日のようにまだ見ぬ映画と対面し続けることよりも、過去にすでに見た映画で自分の心に今もなお強く残っている映画の謎を解くため、それらを繰り返し見直し、そこから新たな発見をしたり、何らかの形で創作のインスピレーションが到来するのを待つことの方が多くなってきた(とはいえ、ほとんど多くはインスピレーションを得る前に、「うはははは、やっぱこれ面白すぎるわ!!」と映画に没入して終わってしまう)。
 映画を見るという行為を意識して行うようになってから、ときにさっき見たばかりの映画について何か書いてみようと思ったりしたこともあったが、たった今見たばかりであったはずの映画とどのような言葉を取り結べば良いのかさっぱりわからないまま、現在にまで至る。
 拙い実作を始めたのも、ひょっとするとたった今見たばかりの映画について持つ言葉が何もないことへのストレスから(そもそもそんな言葉を持つ必要がないのかもしれない)、だったら自分の映画を作ることで何らかの言葉を持てば良い、と思うに至ったからかもしれない(たぶん)。
 数年前、ペドロ・コスタが、もう文章の形式で映画を批評することはできない、文章での批評にあたる行為は自ら映画を作ることによってしかなされない、というようなことをいっていたが、それはかつてゴダールが、批評を書くことと映画を作ることとの間に区別はない、といったことの、より切迫した表現であるかもしれない。いずれにせよ、せっかくの機会であるのだから、乗りかかった船として、映画について何か書いていこうと思う。
 なお、冒頭に「新作」と書いたものの、どうにも書くことがなければ旧作を取り上げてみたり、ひょっとしたら不意に音楽とか本とかチョコレートのこととかについて書いてしまうかもしれないが、そうなるかどうかは全て「邂逅」(めぐりあい)である。一寸先のことはわからない。

『ミスター・ロンリー』 ハーモニー・コリン

 もともとの性分がそうなのかもれないが、最近とんとオリヴェイラやマキノやルノワールなど(今東京で上映されているものでいえば)、すでに評価の定まった作家の映画を繰り返し見てばかりなので(しかし何度見ても面白い)、ここに何か書くことにならなければ、おそらくこのハーモニー・コリンの新作も見に行ったかどうか分からない(たぶん見なかった、ごめんなさい)。
 前作の『ジュリアン』は公開時に二番館だかで見た記憶があるのだが、大変申し訳ないことにどんな映画だったかさっぱり記憶がない(『ガンモ』は見ていない。ごめんなさい)。おぼろげな記憶をたどれば、どうもあまり面白いものに見えなかったようだが、今見れば当時よりは面白く見れるような気がする(し、見れないかもしれない)。
 ただし、今作は面白く見ることができた。『ジュリアン』の記憶がほとんどない以上、ハーモニー・コリンの作風や主題がどう変わったなどということもさっぱりできないが(基本的に、見た映画のことはほとんど忘れている)、この映画に関していえば、よく見ていくとなかなか複雑なことをやってはいるものの、ショットの1つ1つがかなりシンプルに撮られていることが功を奏して、言葉に名指すことのできない、この映画固有の感情をダイレクトな表現で「発明」することに成功している(映画監督はつねに感情なり、概念なり、ショットなりの発明家でなければならないと考えている)。
 ポエティックではあるものの、てらいを狙った表現や演技がほとんどなく(まったくとはいわないが、それは後述)、話もわりとシンプルであり(話の構造自体は、物まね芸人たちの切ない自分探しのエピソードと、奇跡を起こした修道女たちの悲劇の入れ子構造になっているが、これとてそれほど複雑なわけではない)、物まね芸人たちがユートピアンな共同生活を営む郊外の村へ移動してからの緑豊かな戸外のショットや、夜のランプシェードのショットなど、素晴らしいショットがいくつも散見できるし、動物たちも素晴らしく(羊は悲劇であるが)、なにより木漏れ日の射すパリの並木道を歩くマイケル・ジャクソンとマリリン・モンローを捉えたショットには胸が高鳴った。また、ディエゴ・ルナのマイケル・ジャクソンを始め、ドニ・ラヴァンのグロテスクなチャップリン(!)やサマンサ・モートンのマリリン・モンロー(光そそぐ緑のなかで見せる『七年目の浮気』を再現したショットの豊かな肉感!)の豊かな表情もとても素敵だ。
 なかなか複雑なことをやっているというのは、物語が郊外へ移動した中盤、戸外の緑豊かなロケーションにそれぞれ赤い衣装を着せたマイケル・ジャクソンやジェームス・ディーン、そして(文字通り)赤ずきんたちが配置されるとき、映画にフィクショナルな力が宿り始めるのだが、これはもちろん監督の意図的な演出だろう。映画が物まね芸人たちの世知辛い都会生活から、それがどこかだよくわからない抽象的でユートピア的な世界での生活に移行するにつれ、画面の中に赤が氾濫し始め、さらにそれはウィルスに感染した羊を殺すことを呼び水にして画面から排除され、それとともに彼らの生活も徐々に悲劇的な色合いを帯び始める。
 この辺り、ジェームス・ディーンや赤ずきんは、まるで緑の中、赤いスウィング・トップや赤マントを着用するためだけに、この映画に呼び込まれているように見えた。マイケルの衣装も、前半の都会部分では黒と黄色だったのが、このあたりから赤を中心に配色され始める。このあたり、抽象的なユートピア的世界の表象として、緑豊かな戸外に赤い衣服を着た人物を配置させるという演出は、たとえばすぐさまゴダールを思わせるが、『アワー・ミュージック』のどこか安堵感のある、柔らかな世界の表象とは異なり、ここでハーモニー・コリンが演出した世界は、たとえいかに彼らが楽しげに振る舞おうとも、つねに何かいいようのない孤独を感じさせる冷めた世界の表象となっている。
 更に、とりたてて自分たち以外の人間とは交わらずに生きていた物まね芸人たちが、史上最大のショーを開くことになってからの演出は、映画の中にフィクショナルな力を呼び込むために施された、静謐な画面を主としたそれまでの演出とは異なり(この辺りのフィクションを呼び込む静謐な演出方法は、最近のガス・ヴァン・サントと似ている)、かなりドキュメンタリー的な演出で撮影されている。そこに写しとられた彼らを見ていると、少々残酷な言い方をすれば、それが無意味なことだとは気づきつつも演劇ごっこをやらざるを得ない、生な人間たちのドキュメントのように見えてしまい、俳優たちが今までになく、かなり派手な演技をしていることも相まって(演技の演技をしている)、かえって冷めた視線で彼らの振る舞いを見るように仕立てられている。
 このあたり、ハーモニー・コリンは実に巧みに二つの演出を使い分けており、物語としてはクライマックスであるはずのこの一連のシーンを、その悲劇的な結末に至るまで、この映画中もっとも冷めた視線で演出している。この辺りの演出が結果上手くいっているのかどうかはよくわからないが(個人的には、そんなややこしいことしなくてもいいのに、とは思う)、それよりもこの映画の中で最も戦慄を覚えたのは、マリリン・モンローの悲劇を画面から直接見たときではなく、それまで幾度となく聞こえていたはずのビリー・ホリディのブルースのような歌詞が、それと前後して不意にはっきりと聴こえてきた瞬間であった。それまで曖昧な輪郭のままBGM的にしか聴こえてこなかったブルースが、明確な輪郭を帯びてはっきり耳の中に飛びこんでくる。ここにおいて、この映画がこれまでこつこつと積み重ねてきた様々な要素が、全て有機的に映画全体として機能していることに気づかされた。やるじゃないか!ハーモニー・コリン!それは、『ミスター・ロンリー』と呼ばれるこの映画が、言葉に還元することのできない、この映画に固有の感情を見事に発明した瞬間だった。
 更にハーモニー・コリンは、物語上のラスト、映画が単純な自分探しのストーリーとして幕を閉じることを避けるため、修道女たちの「奇跡」のエピソードを挟み込み、ラストの残酷な浜辺のシーンに繋げることによって、映画と観客との視線の距離を周到に作り上げる。このラストの浜辺のシーンはかなりブラックジョークな表現になっており、悲惨なことが起こっているにも関わらず、大いに笑ってしまった。
 瑞々しさと残酷さの周到な視線の操作を施しながら、映画が冒頭のマイケルとバブルスの不思議でユーモラスなショットへと回帰したとき、私は始めに見たときには空っぽだったはずのこのショットから、何ともいえない確かな感情を汲み取ることができた。それは『ミスター・ロンリー』と名付けられたこの映画の、確かな勝利の瞬間だったと思う。言葉で名指すことはとても難しいが、その何ともいえない確かな感情の名を、とりあえずのところ「幸福」と名付けたい。ハーモニー・コリンに幸あることを!

プロフィール
佐藤央(さとう ひさし)
1978年大阪生まれ。2005年、映画美学校6期フィクション高等科卒業制作として『女たち』を監督。同作品は2007年6月に行われた「映画美学校セレクション」にて上映される。卒業後『キャメラマン 玉井正夫』を監督(2005)。同作品は、2005年8月、フィルムセンターで行われた「成瀬巳喜男生誕100年シンポジウム」にて上映される。2007年3月には、『夢十夜 海賊版』の「第八夜」を監督し、吉祥寺バウスシアターにてレイトショー公開される。また冨永昌敬『コンナオトナノオンナノコ』のメイキングを担当。新作は、冨永昌敬との二本立て公開となる(予定)の『シャーリー・テンプル・ジャポン・パート4』(今秋公開予定)。
[2008.2.13]