『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』 ジョージ・A・ロメロ

 『ランド・オブ・ザ・デッド』以来のジョージ・A・ロメロの新作ということで、今年の東京国際映画祭でも上映されていたが、満を持して銀座シネパトスに見に行った。ゾンビ映画を見るには、六本木で開かれる華々しい映画祭よりも、旧大阪球場のコンコース上に、呑み屋に紛れてうっかり紛れ込んでしまいました、というような映画館(誉めてます)で見る方が盛り上がると勝手に思ってしまうのは昭和世代特有のことなのかいまいちはっきりしない。
 齢70近いロメロの新作は、そのようなノスタルジー?、を小気味よく裏切ってくれる低予算故のチープさとは程遠い、知的で骨太な素晴らしい映画だった(予算は確かに少ないのだろうけど)。
 映画学校の学生が自身の習作としてゾンビ映画を撮影中に、世界もゾンビの攻撃にさらされる。自分たちと世界の距離をラジオやテレビ、インターネットで埋めようとしながら、不条理にも巻き込まれたこの陰惨な現状を後世に残すべく、仲間たちが一人一人ゾンビに襲われ死んで行く様を映像で記録することに執念を燃やす。
 こう記すと、なにやらスピルバーグ『A・I』やデジタル映像で世界の憂いと希望を老映画監督に託し自死する女性を描いたゴダール『アワー・ミュージック』とも通底する映画のように思える。
 この映画で興味深いのは、始めから語り手、つまり生き残り編集を施し、ナレーションを被せることになる人間と、主観映像の撮影者であり、この映像を後世に残すことに拘り続ける人間(それは時に滑稽であまりにバカな奴にも見える)が別人だということだ(時折カメラの持ち手を交代しもするが)。
 彼らは、恋人同士であり、後世への記録という大風呂敷を広げて撮影に徹し、死にそうな仲間を助けなくてはならない瀬戸際においても、僕は充電しなくてはならない、と傍観者をつらぬく男(このシーンはなかなかブラックジョークが効いていて笑える)と、男が死んだ後、男の残した映像を継承し、ナレーションを加えて編集した(とされる)女の関わり方がとても面白い。
 とりわけ、おっ!と思ったのは、中盤に差し掛かった辺りでのゾンビによって壊滅した病院で、男の傍観者的な態度に業を煮やした女が、どこからともなくビデオカメラを持ち出し、それまでその男の主観撮影として展開されていた視線の持ち主にカメラをむけたショットの計算された唐突さに貫かれた素晴らしさであった。
 このショット単独で見ても、この映画の視線の持ち主(とされていた)男を膝丈のサイズで捉えつつも暗闇の中にうっすらと溶け込んでるが故に顔が影で覆われ見えないという狙いに狙った演出が見事だし(とはいえ、これ見よがしな感じもない)、更にいえば、このショットがこれだけ大胆な飛躍を映画にもたらすためには、ここまでのショットの運びを余程周到に演出しなければならない。それらの周到な配慮が見事にこのショットに結実されている。さすがロメロだ。素晴らしい。
 そう、ここで明らかになるに、この映画の肝は、映画学校の学生が撮影している(という設定)にも関わらず、やはり画面構成や光の捉え方、人物の配置、動きがかなりハイレベルに計算され、演出されている点にある。ちょっと意地悪な言い方をすれば、たかが映画学校の学生がこんな見事な画面を撮り続けられるはずはないのだ(という僕は映画学校の出身だ)。
 ここにおいてロメロは、学生がカメラを廻した主観映像、という形式的な設定を、視線の演出術、という劇映画の監督ならではの視点に置き換えて、見事にこの映画固有のフィクションを創出することに成功している。この辺りはまさに形式主義者ロメロの面目躍如といったところだろう。
 他にも耳の聞こえないおっさんのキャラクターの扱いや(ダイナマイトの使い方と登場したシーン内であっさり殺されるところの演出は見事だった)、目を見張るべき光の使い方など見るべき点は多くあるが、しかしロメロにとって、ゾンビ映画はもはやホラーやスリラーというジャンル性を隠れ蓑にしつつ(『ランド・オブ・ザ・デッド』でも展開されていたが、サスペンスフルな瞬間をあえてことごとく遮断していっている)、フィクショナルな語りの形式を存分に実験する豊かな場所になっていることがなによりも興味深い。

『リダクテッド 真実の価値』 ブライアン・デ・パルマ

 実はロメロと同じ、まもなく齢70を迎える『ブラック・ダリア』以来のデ・パルマの新作も、映画学校の入学試験に提出する映像素材を集めるためアメリカ軍に入隊した若い兵士の主観映像が「ダイアリー」と称して構成されている。
 これだけでも、先のロメロの映画と余りに似た設定であることに驚かざるを得ないが、現在のアメリカでこれらの題材と表現形式を考えると必然的にそこに突き当たらずにはいられないのか、これらそれぞれの主観映像の持ち主と(される)映画に希望を持った若者の末路を見るにつけ、なんともはや今のアメリカ映画のエッジは映画自身が自らの首をかけながら映画を撮らざるをえないところまできているのか、とうなだれずにはいられない。映画自身が主題として取り込まれていくこのムーブは、おそらく1970年以来の流れとして見ることができるかもしれない。
 このデ・パルマの新作では、ロメロのそれと異なり、兵士によって撮影された主観映像が、徹底してYou Tubeなどインターネット上でアップされ閲覧されている映像と同等の扱いでフラットに並べられているように見える。
 ロメロの新作でも撮影された映像がYou Tubeなどにアップロードされたり、何者かによる映像が世界の現状としてアップロードされていたりはしたが、それらの映像を見る主体は、あくまで劇中人物の視線として演出されていたように見える。
 実際、主観映像の撮影者が自らが撮影した映像をインターネットにアップロードしている様がしっかりと演出されてもいるのだが、デ・パルマのそれでは、そのような様子は観客に見せられないまま、インターネット上の映像が、敵も味方もなく誰の語る視線ともつかないまま唐突にわれわれの前に提示される。
 これらの二本の映画を並べてみた場合(並べなくても良いのだが)、一般的には感情移入不可能に演出されている存在として、ロメロの映画のゾンビにあたる位置にアラブのテロリスト(アメリカ軍から見た場合)が置かれるように見える。
 ただし、あくまでロメロのゾンビが、人類に対する不条理な敵、として描かれているところから見ると、『リダクテッド』のアラブのテロリスト(アメリカ軍から見た場合)は、やはりアメリカにとっての敵(そしてそれは決して不条理なことではない)、としてあくまで描かれている。この差は非常に大きい。
 更に、これらの映画の主観映像の視線の持ち主は、こぞって「傍観者!」と罵られつつも(それは記録映画の文脈では亀井文夫と三木茂の「ルーペ論争」以来の普遍的な問題である)、ここが興味深いのだが、ロメロの映画での彼は最終的にはカメラを恋人に渡し、自身の末路をまで記録せんと「俺を撃て(撮れ)」(shoot)と叫ぶに至る(最終的に彼の撮った映像は恋人の手によって編集され語り起こされる)。
 ロメロの映画では、カメラを持った男がジャーナリズム精神とでもいうべき社会派的精神を持つに至る人間として演出されていたのに対して、デ・パルマの映画では、大学の映画学科に入学したいから、という徹底して自分自身のためだけに映像を記録するという、卑小な存在として描かれている(彼の末路は自分の意志とは関係なく撮影された無惨な映像として、誰の手による仕業かもわからないままネット上にアップロードされることになる)。
 「実際にイラクで起こったことをベースに作られている」という映画冒頭の掲示にもかかわらず(もちろん、ここで掲げられたアメリカ軍のイラク国民に対する惨い振る舞いが物語上のベースとなっているものの)、デ・パルマの興味はこれらの残虐行為について語ることよりも、これらの映像を世界はどう見ているか、ということを「ありのままに」提示することにあるように見える。
 つまり、ロメロの映画では、物語の登場人物たちと彼らを取り巻く世界との間に意識的な遠近法がしっかりと演出されていたのに対して、デ・パルマの映画では、登場人物たちと世界との間に遠近法がまるでないかのように、ただフラットに映像が並べられている(そうであるかのように構成している)。
 これは世界との対峙の仕方において、一見現実の状態を手を加えずありのままに提示しているようにも見えるが、もちろん実はそうではない。
 『リダクテッド』という映画を見ているに、どうしても兵士が撮った(とされる)主観映像と、監視カメラ(とされる)の映像や、You Tubeでアップされた映像をフラットな空間に併置して、あとは観客に委ねるといった「現代アート」として見えてしまう部分が多く、具体的な画面の連鎖によって世界に対する観客の視線をディレクションしていくフィクショナルな装置としての映画、を愛するものとしては何か微妙な感じの映画に見えてしまった(現代アート自体にいちゃもんつけてるわけでは決してありません)。
 個人的にはロメロの新作をお勧めするが(余計なお世話だといわないで)、とはいえ、これら二本の映画を合せ見ると、とても面白く、考える点も多い、優れたアメリカ映画の二本立てのように見える。

[2008.11.28]