『イースタン・プロミス』 デヴィッド・クローネンバーグ
幼い頃、映画狂の父から繰り返し見せられていた映画が何本かあった。それはチャップリンの映画であり(『モダンタイムス』のことをよく覚えている)、マルクス・ブラザーズの映画であり(『我が輩はカモである』のことをよく覚えている)、当時封切りしたばかりだった『バタリアン』であり、そしてクローネンバーグの『ビデオドローム』と『スキャナーズ』だった。
考えてもみれば6、7歳の子どもに見せる映画としてチャップリンは順当だともいえるし、マルクス・ブラザーズもかなりセンスの良い選択だったとも思うし(今は亡き父はグルーチョのことが大好きだった)、『バタリアン』はオセロで私が勝ちそうになると嫌がらせのようにテレビモニターにかけ、恐がりびびる私の隙を狙って勝とうとする小道具でもあったのだから、それもまた分かる(雨がゾンビを甦らせるというアイディアが秀逸だと6、7歳の私に父は言っていた)。
しかしそこに『ビデオドローム』や『スキャナーズ』が加わるのだから、これはもう教育的配慮だとか、子に映画の良さ、面白さを伝えたいという親心の範疇を越えていることは間違いない。父はたんに当時自分が大好きだった映画を何のてらいもなく、さも同じく映画好きの友人に勧めるかのようにして私に見せていたのだと思う。
チャップリンやマルクス・ブラザーズの映画たちは、その後私自身が映画狂になってから改めて見直すようになり、自分もかつての父のように熱狂した。当時、父が毎夜の如く読み聞かせてくれたシャーロック・ホームズもほとんど読み返したし、これらもまた今にしても素晴らしい小説だと思う。
だが、デヴィッド・クローネンバーグのカナダ時代のこれら作品群は、未だ見直していない。もちろんクローネンバーグ狂(だったはずである、多分)の父が『ザ・フライ』を見逃すはずがなく、封切り時にしっかり私も見させられた。しかし、その後、父とは約10年近くほとんど連絡を取ることがなくなり、私もその10年間は音楽と女の子にかまけてまったく映画など見ることもなく、クローネンバーグの名前などすっかり忘れていた。
『ザ・フライ』から10年近くの時を経て、映画とジャズ狂になった私は再び父と交渉を持つことになるのだが、父とは『裸のランチ』の話もしなかったし、『イグジステンズ』の話もしていないし、もちろん『スパイダー』の話もしていない。『スパイダー』には幾分心が囚われる瞬間もないことはないのだが、少なくとも20世紀のクローネンバーグと20世紀の私が父の媒介なしに交じり合うことはなかったといっていい。
しかしいったいどうしたことか。前作『ヒストリー・オブ・バイオレンス』といい、この『イースタン・プロミス』といい、21世紀のクローネンバーグは圧倒的に素晴らしい(『スパイダー』も21世紀に作られた映画なのだが)。正直、私はこんな日が来るとは思ってもみなかった。これまでのクローネンバーグの映画を見るにつけ、被写体とキャメラの間に必ずといって良いほど自身のファンタズムを挟み込もうとする、アーティスト然とした態度にまったく興味が湧くことはなかったのだが(ファンの皆様すみません)、これら2作のクローネンバーグは、明らかに被写体とキャメラとの身を切るような無媒介的関係を生きている。
前作では撃ち込まれた銃弾の跡、今作では切り裂かれたナイフの傷跡の粘着質な描写にかつてのクローネンバーグ的なフェティシズムを感じることもあるのだが、それ以上にこれら2作においてのクローネンバーグは明らかに「想像するものとしての作家」ではなく、「見るものとしての演出者」に徹することで、演出者と俳優による肉体の映画を完膚なきまでに創り上げた。この映画で、男たちが互いの距離を縮めるために選ばれた武器が拳銃ではなく、ナイフであることもそのことからくる演出である(むろん、男と女が互いの距離を縮めるのは唇である)。
クローネンバーグ自身も「この映画はほとんど会話でできている」と言うように、いくつかのショッキングな描写はあるものの、それらの描写とて決して見せびらかすために差し込まれているのではなく、語りやドラマに徹底的に奉仕したクールでとても力強い描写として機能している(死者の声によるヴォイス・オーバーもとても効果的だった)。
このことはおそらく、満を持して製作を担当した前々作『スパイダー』が興行的に失敗したことから、いわば雇われ監督として演出に徹せざるを得なかったクローネンバーグが、自身の脳内的な世界観をプロデュースすることを放棄し、すでにそこにある世界への視線をディレクションすることのみに集中したことから生まれる奇跡であり、必然だといっていい。これまでも、キューブリックや大島渚といった映画作家たちが自身の世界観をプロディースすることを戒め、視線のディレクションのみに集中した結果、素晴らしい映画を生み出した前例にクローネンバーグも名を連ねたのだ(『アイズ・ワイド・シャット』、あるいは『マックス・モナムール』)。このことは近年のアメリカ映画においても、憔悴する男たちの顔にひたすらキャメラを向けることのみに集中した結果もたらされた、予想もしていなかった『ゾディアック』の素晴らしさにも繋がることである。
この『イースタン・プロミス』という映画では、なによりもヴィゴ・モーテンセンが素晴らしい。ロンドンのロシアン・マフィアであるヴィゴ・モーテンセンの頭髪をリーゼントに仕立てるというヴィジュアルな発想によって、この映画の勝利はほとんど見えているような気もするくらいだが、彼のリーゼントが崩れる瞬間がセックスしている時と殺し合っている時、そしてロシアン・マフィアとしてのアイデンティフィケーションが崩れて以降となっているのだから、この映画の主題に相応しいなんとも理にかなった演出だと思う。
クローネンバーグ自身の「ほとんど会話でできた映画」という言葉にあるように、この映画は実にシンプルな演出によって構成されているのであるが、キャメラのレンズの選択もまた見事であり、全編に渡ってほとんど同一の距離感で撮影されている。これは、この映画特有の緊密な語りの論理から導きだされた選択であり、例えば増村保造の映画がそうであるように、叙情的、あるいは説明的なロングショットがほとんど存在しないショットの構成とも関係している(とはいえ、この映画には増村の映画にはほとんど見られないサスペンスの語り口が巧みに導入されている)。
人物たちが背負って来た過去=背景を打ち消さねばならない物語的な要請から、この映画の主要人物たちを捉えたショットたちは、ほとんど人物の顔と身体のみを捉えており、その背後に街の具体的な風景を捉えることはほとんどない。この映画は、自身の身体にのみ具体的な歴史が刻み込まれた男たちを描いてあるのだから、それもまた必然的な演出なのだろう。
この『イースタン・プロミス』という映画の中で、人物が風景を背負うのは、例えば病院から出て来たナオミ・ワッツを修理したバイクと被害者の親族のロシアでの住所を伝えに来たヴィゴ・モーテンセンが迎えるところなど、ロシア系ブリティッシュであるナオミ・ワッツとヴィゴ・モーテンセンが出会う路上でのシーンのみとなっている(ナオミ・ワッツの視線を通して初めて男たちは街の風景を背後に背負う)。この場面において、自らが勤務する病院から出て来たナオミ・ワッツを入れ込んだ2人のツーショットにおいて、ロンドンの街の風景に馴染むことなく、どこまでも異物として画面に収まっているヴィゴ・モーテンセンの佇まいが恐ろしい。
先にも書いたように、この『イースタン・プロミス』という映画においては、その説明や余情をほとんど排除した圧倒的に緊密な語りの論理によって、キャメラと被写体の距離感がぶれることはほとんどないのだが、映画の序盤とラストにある川へ死体を投げ込む(投げ込もうとする)シーンにおいてのみ、俯瞰気味のやや雄弁なロングショットが導入されている。とりわけラストにおける、まるでペドロ・コスタ『骨』の黒い袋を抱えた父親のように赤ん坊をそっと抱きかかえるヴァンサン・カッセルとリーゼントの乱れたヴィゴ・モーテンセンとのやり取りを捉えたシーンでは、これまでこの映画を支えて来た鉄壁の語りの論理とは異なる、少しばかり叙情的な演出が施されており、これはいったいどうなることかとドキドキして見ていると、『ミュンヘン』を思わせるような男同士の感情的な吐露があり、メロドラマ的な男女のキスシーンまであるのだから、この呼吸の乱れもまた必然的な演出に違いない。『ミュンヘン』や、あるいは『ミスティック・リバー』をもどことなく思わせる、この『イースタン・プロミス』という映画において、私は初めて父の媒介なしにデヴィッド・クローネンバーグという作家と遭遇することができたような気がした。最後になるが、「曇天のサスペンス」(蓮實重彦)という点において、『接吻』とも連なる映画だとも思う。紛れもない傑作。