『我が至上の愛 アストレとセラドン』 エリック・ロメール

 片乳があれだけごく自然にさらされている映画を初めて見た。ロメールの狙い通り豊かな乳白色の乳房を片方だけさらすためだけに、衣装が、風が、木々が、俳優の動きが、色彩が、物語が、映画のそのすべてが奉仕している。これはまさに艶笑喜劇と呼ぶに相応しい、途轍もない映画だ。
 エリック・ロメールは80歳を越えて後(それはつまり21世紀に入って後ということでもある)、1作ごとに驚くべき大胆な世界を私たちに提示してくているが、これはおそらくは21世紀に入って以降に作られた映画の題材が全てコスチュームプレイによっていることが大きいと思う。18世紀後半のフランス革命を舞台にした『グレースと公爵』(2001)しかり、1930年代のパリを舞台にした『三重スパイ』(2004)しかり、そしてこの5世紀のガリア地方を舞台にした『アストレとセラドン』(2007)しかり。マキノ雅裕曰く、時代劇の方が嘘が大きくつける、ということだ。
 ラシーヌやコルネイユら大戯曲作家ではなく、彼らと同時代人である17世紀フランスの貴族階級に愛された通俗恋愛小説作家オノレ・デュルフェの原作を選んだこともロメールらしい。話だけとりだせば、浮気現場を彼女に目撃された羊飼いの美男の男が、彼女から「二度とわたしの前に姿を現すな」と三行半を突きつけられ、傷心のあまり川へ身を投げ自殺を図るもののニンフ(精霊)に助けられてしまい、若い男は再び彼女の前に姿を現したくて仕方がないのだが、しかし彼女には「二度とわたしの前に姿を現すな」といわれたし、でも会いたいし、と悶々としつつ幾夜もの思案の結果、女装して彼女に近づいて行くという、なんとも愛らしいというかばかばかしい、大変良い意味で通俗的な物語なのであるが、それにしてもこの映画の最大の美徳は、別れ別れになった若くて美しい男女が建前上は禁欲的に振る舞いつつ、その実淫らにセックスに耽りたいという肉体的な欲望に忠実に振る舞ってしまうというところにある。
 そのような二重のモメントに対してエリック・ロメールが施した映画術の素晴らしさは、この水面上と水面下でいたずらに執り行われる男女の遊戯を、つねに一つのイメージが一つの意味に収まらないよう実に巧妙な罠を幾重にも仕掛けたことにある。とりわけこの映画の後半から終盤にかけてなどは、そのような水面上と水面下の揺らぎのオンパレードであり、私は下手に爆笑もできず、ただただニヤニヤとしてしまうのみで、これこそまさに艶笑(えんしょう)の極みってやつだろう。例えていうなれば、一本の同じ映画をお母さんは高尚な芸術映画として見ることができ、娘は卑猥なエロティックコメディとして見ることもできるという仕掛けが施されているのだ。
 セラドンは「二度とわたしの前に姿を現すな」というアストレの言葉に実に忠実であり、女装をして別の人間として振る舞ってはいるものの、アストレの乳白色の身体に思う存分触れたくてしょうがないという自らの欲望にもまた実に忠実なのだ。この二重の忠実に揺れるセラドンとアストレの様が、美男美女の肉体を中心にして見事に表現されている。
 女装する男性ということだけとりあげれば、『僕は戦争花嫁』(ハワード・ホークス)であったり、『お熱いのがお好き』(ビリー・ワイルダー)であったりと、ハリウッドのコメディ映画がすぐに思い出させるが、エリック・ロメールはこのような喜劇的設定を全面には押し出さず、表面上流れる禁欲的な物語の波の下で実に卑猥な艶笑噺を見事に展開させているところにこの映画の知的な荒唐無稽さが宿っている。そこにおいてこの映画はまさにエルンスト・ルビッチのコメディ映画のようであり、今やほとんど失われかけていた映画が思いもよらぬ形で現代に甦ってしまったようにも見える。
 またこの映画の面白いところは、女装して僧侶の娘として紹介されたセラドンのことをアストレや羊飼いの仲間たちが徹底して「セラドンに良く似た別の女性」として振る舞うところにある。
 劇中、女装したセラドンを見た仲間の羊飼いが真っ先に「あ、セラドンに似てる」とあからさまに断言するにもかかわらず、それ以降その言葉などまるでなかったかのように彼女たちは振る舞い続ける。観客である私たちからすれば、どうしたって正体が露になることがあからさまな女装であるにも関わらず、映画の中の彼女たちはまったく気付かない(かのように見える)。ことによると、彼女たちは気付かないのではなく、「気付いては行けない」と魔術師ロメールに諭されているかのようだ。
 これは、「ヒッチコックの映画の登場人物はヒッチコックの映画を見ていない」という蓮實重彦氏による見事なヒッチコック映画の定義に符合するヒッチコキアンロメールの面目躍如たる映画術だといえるだろう(余談だが、ヒッチコック中毒者のことをヒッチコキアンというように、プラダ中毒者のことをプラディッシマという)。
 このことは、例えば『呪怨』でエレベーターに乗る伊東美咲演じる劇中人物の背後に例の男の子の姿がちらちらと出てくることに劇中登場人物が気付いた方が恐いのか、劇中登場人物は気付かず観客だけが気付いた方が恐いのかとかつて清水崇と高橋洋が話していたが、この例にそって少々乱暴にいってしまえば、登場人物が気付くのが古典映画であり、登場人物は気付かず観客だけが気付くのが現代映画だというようにもいえる。
 エリック・ロメールが施した仕掛けとはこのような単純な定義とは比較にならないほど繊細でかつ巧妙なものであるのだが、この流れでいえばエリック・ロメールは優れて現代的な監督だといえるし、そのことがこの「5世紀を舞台にした17世紀通俗恋愛小説の21世紀的映画化」という、ロメールにしかできないような離れ業を可能にしているのだ(ロメールの他にはオリヴェイラくらいしか思い浮かばない)。
 女装したセラドンとアストレたちが住まう古城にしても、18世紀後半のパリの街をCGで絵画的に再現してみせた『グレースと公爵』の方法とは異なり、内装はともかくとしてもその外壁はいかにも21世紀の現代に見られるがままの古城の痕跡といった風情のまま使用されており、衣装もまたデュルフェの小説が書かれた17世紀当時の人間が5世紀のガリアの人々を想像して描いた版画からデザインされたものを俳優に着せている。
 この辺りのロケーションと人物のマッチングの複雑な在り方は、ことによるとストローブ=ユイレの方法を更に押し進めたものとして、かなり大胆で過激な方法をもって私たちの想像力に揺さぶりをかけてくる。このような幾層にも施されたイメージのズレにこそ映画にのみ固有のフィクションを喚起する力が宿るのであり、そこから湧き出るイメージの揺らぎに私は多いに魅了された。
 スタッフとキャストの関わり合い方もさぞや素晴らしいのだろうと画面から伺うことができ、まるでピクニックのように緩やかな時間を感じることができる(少々卑猥なピクニックのような気もするがそれは素晴らしいことだ)。主演の二人の男女も素晴らしいが、とりわけラウル・クタールの門下であるという、撮影のディアーヌ・バラティエは現在世界トップの腕をもったキャメラマンだと思う。90年代に入って以降のロメール作品を支えているこのキャメラマンの凄さは、ことに今世紀に入ってからのロメール作品のその全てで驚嘆させられるのであるが、個人的な意見としていえば、彼女は少なくともカロリーヌ・シャンプティエよりも数段優れたキャメラマンだと思う。
 この映画をもって今年で89歳を迎えるエリック・ロメールは引退を表明しているが、このチャーリー・パーカーと同年生まれのシネアストの恐ろしく知的な荒唐無稽ぶりを見るにつれ、映画の次の10年の行き先に思いを巡らすのであった。この『アストレとセラドン』という艶笑喜劇は、『グレースと公爵』『三重スパイ』とともに21世紀世界映画のベスト10の一角を成すことが早々と決定してしまった驚嘆すべき傑作である。

[2009.2.14]