『アンダーカヴァー』 ジェームズ・グレイ

 2008年も残り数日という、ある意味商業的なヒットはあまり期待されていないのだろうという時期にひっそりと公開された本作は、寡作ではあるがウェス・アンダーソンやポール・トーマス・アンダーソンらと同世代であり、アメリカ映画のこれからを担う監督であるジェームズ・グレイにかけられた期待に見事に応えた力作であった。
 ごく当たり前のことであるが、ホアキン・フェニックスが素晴らしい。マーク・ウォールバーグとの「出来のいい兄貴と出来の悪い弟」というカップリングも映画ならではのリアリティをもって見る者の胸に迫り、彼らを厳しくも暖かい包容力を持って支えようとするロバート・デュヴァルの父親像もアメリカ映画を見ることの一つの醍醐味を改めて感じさせてくれた。
 最近では『ミュンヘン』や『ゾディアック』もそうだろうが、涙に暮れる男たちを描いた映画として、この映画は大変素晴らしく、私も暮れの歌舞伎町で泣きに泣いてしまった(もちろん本丸としてはマキノ雅裕こそ涙に暮れる男たちを描かせたら右に出る者はいない作家だ)。とりわけ、恋人が出て行った後、ホテルに戻り部屋の片付けを始めたところで感情が込み上げ大泣きするところなど絶品だ。感情は遅れて込み上げてくるものということをホアキンもジェームズ・グレイも良く知っている。
 もちろん、ホアキンの恋人役のプエルトリカンを演じたエヴァ・メンデスも素晴らしく、その肉感的な存在感をもって恋人であるホアキンを魅惑し、嫉妬もさせ、たとえ恋人であろうとも所詮は他人のことに身を捧げきれるわけはないビッチぶりを存分に発揮しながら、時には煩悶する恋人に何もしてあげれないスイートな無力感に囚われながらも、抗いがたい運命の流れの中へ恋人を押し流していくファム・ファタールを見事に演じていた。
 既にして名高い雨のカーチェイスのシーンにしても、このエヴァ・メンデスが絶妙なタイミングで「あなたに貰った時計を忘れた」とホアキンに訴え、見ている私たちは一瞬緊張が緩和し、では取りに戻ったホテルで陰惨なことが起こるのだろうかと意識を外に向けたその瞬間、マフィアからの銃撃を受けるというチェンジ・オブ・ペースの呼吸も見事であった。
 しかし、個人的には、この映画の活劇的エナジーよりも、後半父親であるロバート・デュバルが死んだ後、父のため、自分の身を守るために警官になる道を選んだ弟と兄が何の変哲もない警察の一室で語り合うシーンに胸を打たれた。
 想像を絶する恐怖やプレッシャーの中、それまで一切弱さを見せず自らを厳しく律していた兄が、弟が自分と同じ警官になることを受けて始めて自らの張りつめたものを他人と分かち合うことができるようになり、ごく自然な佇まいで弱さを見せる。これ見よがしに弱さを吐露したり、押し付けたりするのではなく、この慎ましくもあるが切実な弱さに私は胸を打たれた。
 実際、この場面を嚆矢として、亡き父の誇りの継承という主題が映画を貫くようになるのだが、しかしだからこそ、映画のラスト草むらの銃撃戦の後、父から受け継いだ拳銃を弟であるホアキンがなぜ兄であるマーク・ウォールバーグではなく、後見人のような父の同僚に渡すのかということに頭を抱えた。
 もちろん、この銃撃戦の後、兄は現場を離れ、弟は仮ではなく正規の警察官となるのだから、彼ら親子の誇りはNYPDに譲渡されたのだという、いかにも9.11以降の「ニューヨーク市民、ひいてはアメリカ国民としての個人」を描いた映画ということになるのかもしれない。
 その意味でこの映画は紛れもない「現代アメリカ映画」ということになるのだろうが、ニューヨーカーでもアメリカンでもない私としては、あの父の拳銃が、例えどんなにヨレヨレになっていようとも何はさておき兄へと継承され、弟は再び夜の世界に戻っていってもらった方が激しく胸を打たれたことだろうと思う。
 この「継承」という問題は、過去アメリカ映画に強く見られた主題だと思われるが、これなどは映画のみならず、ひいては「アメリカ」そのものに関わる主題ではないかと思われる。
 2009年1月20日のバラク・オバマの就任に伴い、前任者であるジョージ・W・ブッシュがワシントンを離れたが、この就任式において彼の地を去るブッシュを新たなワシントンの住人であるオバマが見送るという責務の継承という儀式が、かくも必要不可欠なことのように執り行われていた映像を見るにつけ、そのように思えてならない。
 あるいは、継承とは、ジェームズ・エルロイの小説『ブラック・ダリア』(1987)で色濃く描かれていたテーマであり、ブライアン・デ・パルマによる映画版『ブラック・ダリア』(2006)では大きく捨象されたテーマでもある。
 エルロイの『ブラック・ダリア』では、ブラック・ダリア事件に執着したあげくメキシコの土地で消息を絶った親友の運命を、それが自らを危険な方向に導くことを分かっていつつも背負わざるを得ない男に継承させることをその核として描いていたが、デ・パルマの『ブラック・ダリア』ではその「運命の継承」というモメントが完全に捨象されていた。
 デ・パルマの『ブラック・ダリア』自体は、とても魅力的な映画であり、なかなか見事なデ・パルマ映画に仕上がっているのだが、この二つの『ブラック・ダリア』の違いは、今においてもなかなか私を捉えて離さない重要な違いとして残っている。
 いったいなぜあの拳銃をホアキン・フェニックスはたとえどんなにヘロヘロであれマーク・ウォールバーグに渡さなかったのか。繰り返しになるが、あの拳銃の継承先が兄ならば、ドラマがしっかりと噛み合った見事な古典映画として再び闇の中に消えて行く弟というイメージで終われたはずであるが、そこをずらさざるを得ないということが「現代アメリカ映画」ということなのだろうかという疑念が今もずっとつきまとっている。

「2008年この10本」

 せっかくですので、2008年に劇場で見た映画のうちで心に残っているものをあげておきます。

『アンナと過ごした四日間』イエジー・スコリモフスキ
『ジャン・ブリカールの道程』ジャン・マリーストローブとダニエル・ユイレ
『接吻』『×4』万田邦敏
『スウィニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師』ティム・バートン
『イースタン・プロミス』デヴィッド・クローネンバーグ
『ランジェ公爵夫人』ジャック・リヴェット
『トウキョウソナタ』黒沢清
『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』ジョージ・A・ロメロ
『コッポラの胡蝶の夢』フランシス・フォード・コッポラ
『ホウ・シャオシェンのレッドバルーン』ホウ・シャオシェン
『アンダーカヴァー』ジェイムズ・グレイ

 次点は『ランボー最後の戦場』(シルベスタ・スタローン)と『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(ポール・トーマス・アンダーソン)。二本とも上の10本と比べると少々落ちるが気骨を感じた映画だということでよろしくお願いします。『ダージリン急行』(ウェス・アンダーソン)は上の10本に入っていてもまったく遜色はないが、大変申し訳ないことにどうしてもその世界観が身体にマッチしないので残念ながら枠外としたい。ごめんなさい。『パラノイド・パーク』(ガス・ヴァン・サント)は後退しているとしか思えずまったく退屈であった。2009年公開の『ミルク』には大いに期待したい。
 また、『誰でもかまわない』(ジャック・ドワイヨン)やジャン・シャルル・フィトッシの映画は2009年4月11日公開の『シャーリーの好色人生と転落人生』(佐藤央/冨永昌敬)の制作中だったため見れなかったので、見ることができてればこのあたりが入ってくる可能性が高いと思われる。なお、旧作の特集上映ではジャック・リヴェットの特集やフランス映画の秘宝など優れた特集があったが、なかでもフィルムセンターでのマキノ雅裕と伊藤大輔の特集を強く押したい。『肉体の門』(マキノ正博)や『お六櫛』(伊藤大輔)はとても面白かった。
 2009年は年頭からエリック・ロメール『我が至上の愛 アストレとセラドン』とクリント・イーストウッド『チェンジリング』『グラン・トリノ』が控えており、すでに10本中3本の枠が決定しているといえるかもしれない。いずれにせよ、こうして見るといわゆる作家の映画ばかりなので、『トロピック・サンダー/史上最低の作戦』(ベン・スティラー)など、見逃してしまった多くの愛すべきアメリカ映画に関しては、本サイトの主催者であるgojoさんの日記を参照していただければ幸いである。

[2009.2.14]