『コロッサル・ユース』 ペドロ・コスタ

 この映画は本当に素晴らしい。今までこの「日記」で取り上げた映画のうち、この『コロッサル・ユース』と『接吻』のみは二度ずつ見たのだが、一度目よりも二度目の方が全てがよりクリアに見えた『接吻』に比べると(とはいえ、全てが「見えた」わけではとてもありません)、この『コロッサル・ユース』という映画は、一度目よりも二度目の方が目眩を覚えるほどより複雑に、そして陶酔を覚えるほどより静かで深いエモーションを感じながら見ることができた。そして、二度目を見終えた今に至ってもまだこの映画から感じたエモーションはまだはっきりと胸に残っている。
 前作『ヴァンダの部屋』の主人公であったヴァンダが住む新築された見るも眩しい「白い部屋」と、ヴァンダの「姉妹」であるベーテが住む人物たちの顔を見ることすらままならない薄暗い「黒い部屋」との間を、彼女たちの心の「父」であり、妻であるクロティルドに逃げられたばかりのヴェントゥーラがうろうろと彷徨いながら、自分たちの過去に何かがあった場所に立ち返るという実にシンプルな横軸と、いったい本当に32年前の出来事なのだろうか、登場人物の姿態を変えることはまったくせず、ただヴェントゥーラの衣装の変化のみで時制の変化を表現されたフラッシュ・バックによって、この映画は構成されている。
 何よりもまず、この映画のファーストショットとそれに続く二つ目のショットほどミステリアスで希有な表現力をもった導入部を、近年僕は見たことがない。この一つ目のショットを目にした時にはジョン・フォードのことを考え、二つ目のショットを目にした時にはストローブ=ユイレの『シチリア』のことを考えてしまった。
 そして、この冒頭から二つ目のショットは、この後、幾度となく繰り返し語られるヴェントゥーラの妻であるクロティルドが出てくる唯一のショットであるのだが(クロティルドという名前は確か『骨』でヴァンダが演じた役名だったと思う)、この二つのショットの後に続いていくことになるこの『コロッサル・ユース』という映画の全てのショットは、まるでこの映画の登場人物たちと同じように、これら冒頭の二つのショットの周囲を彷徨っているかのように見えた。
 この映画の中でヴェントゥーラがクロティルドのことを指して呟く台詞「見かけは同じだが、中身は違う」という台詞は、最も的確にこの映画自身のことを表現しているようだ。例えばそのことは、一見それがまさか過去時制であるとはなかなか気付きえない、途轍もなくスリリングな「フラッシュ・バック」の中のヴェントゥーラを見るにつけ、台詞を呟いた当の本人こそを「見かけは同じだが、中身は違う」存在、言い換えれば、すなわち「幽霊」のように表現されていることを見るにつけ明らかであるのだが、この『コロッサル・ユース』という映画の中においては、更に複雑なことに、「白い部屋」にいるヴァンダも「黒い部屋」にいるベーテも、「幽霊」として描かれている当のヴェントゥーラに向かってしきりに、部屋の中に「幽霊」がいる、と言って憚ることがない。つまり、この映画の中に登場する人物のほとんどは、「幽霊」として存在しているか、あるいは「幽霊」を見ているかなのだ。これはいったいどういうことなのだろうか。
 ジャンキーから抜け出し、生活保護を受けられない、といった不安はあるものの、出産を経て子どもとともに暮らしているヴァンダは、『骨』や『ヴァンダの部屋』の時よりも明らかにふくよかで女性らしくなっており、そんな彼女の住む「白い部屋」はまるで「天国」のように見え(つねに天井が入れ込まれている)、片や依然としてヘロイン中毒から抜け出せないベーテの住む「黒い部屋」は、まるで以前の「ヴァンダの部屋」のようであり、それはほとんど「地獄」のようにさえ見える(徹底して壁しか映されていない)。
 そしてそれら二つの部屋の間を彷徨い、家出した妻に持っていた家具を全て捨てられてしまったために、床しか映されることのない「白い部屋」に寝転がっているヴェントゥーラが住む世界とは、彼とクロティルドが出会ってからの32年間の時間の蓄積(それはカーボヴェルデの独立から現在までの時間でもある)のたがが外れ、複雑に錯綜した時間、それはまさに『ハムレット』でシェークスピアがいうところの「時間の蝶番が外れてしまった」世界であるかのようだ。このヴェントゥーラが住む世界として描かれている「時間の蝶番が外れてしまった」世界とは、おそらくもっとも「幽霊」が存在するに適した時間、すなわち持続した時間の感覚が完全に狂った「煉獄」として描かれているのだろう。
 おそらくこの『コロッサル・ユース』という映画の物語を語るにあたって、ペドロ・コスタが「フラッシュ・バック」という方法(それにしても、なんと大胆でむき出しのフラッシュ・バックなのだろうか!)を採用したのは、ヴェントゥーラのことを「煉獄を彷徨う幽霊」として描くためだったのだろう。この映画の中で繰り返し読まれる「手紙」のとても美しい言葉たちは、「煉獄」を形成するたがの外れた時間を辛うじてつなぎ止める唯一の細い糸として呟かれているのであるのだろうし、だからこそそれらの言葉たちは、繰り返し繰り返し呟かれなければならない(でないと、時間が完全にばらばらになってしまう!)。
 「天国」「煉獄」「地獄」というと、近年ではすぐさまゴダールの『アワー・ミュージック』が思い出されるが、とても興味深いことに、この映画のラストショットは、奇しくも『アワー・ミュージック』と同じ、しかしこの映画に独自の穏やかな「天国」の描写で締めくくられている。そのことはこの少し前のショットで、それまで「地獄」として描かれていたベーテの住む「黒い部屋」を、ヴァンダの住む「白い部屋」と同じ構図で収めたショットで見るものに予感させているのだが、このベーテの部屋をまるでヴァンダの部屋のように捉えた構図のショットを見た時(ヴェントゥーラと食卓を囲んだショット)、僕は思わずぐっと来てしまった。ベーテは事前に「白い部屋に行けば幽霊を見なくなる」と言っており、ベーテの言葉を聞いたペドロは、このショットにおいて彼女の願いを叶えたのだ(そのせいかこのショットでのベーテの表情はそれまでより幾分柔らかになっている)。
 最後になるが、映画の後半、爆弾のせいで片足を酷く負傷したパウロが詐欺師としてヴェントゥーラの前に不意に姿を現した後、妻なのだろうか、一人の女性に付き添われて「白い部屋」のベッドに横たわりながらヴェントゥーラに「一緒におふくろに会いに行ってくれないか」と呟くその時、それまで窓から強い光が差し込み、白く白く映し出されていた白壁に不意に影が差し込み薄らと黒い壁へと移り変わる瞬間、この映画のなかでもっとも強く静かなエモーションを感じ、深く深く胸を打たれた。

『ランボー 最後の戦場』 シルヴェスター・スタローン

 正直に告白すると、『ランボー』や『ロッキー』といった映画をそれほど熱心に見たことはまるでないのだが、この『ランボー 最後の戦場』は本当の力作だった。スタローンの前作『ロッキー ファイナル』が素晴らしいということは、友人たちから多く聞いていたのだが(まだ未見です。ごめんなさい)、この映画を見て心から納得することができた(何を今更な反応で重ねてごめんなさい)。
 物語をもの凄く大雑把に言えば、激戦下のミャンマー軍事政権に占領された村に捕虜として捕まったアメリカ人たちをランボーが誘導するゲリラ兵たちが奪還しにいく、というシンプル極まりない話なのだが、これがまったくそんな話に還元することなどとてもできない、陰惨極まりない暴力(ゲリラ戦)描写で描かれている。人体がいとも容易く無惨に破壊されていく様子を、フェティシズムなどのまやかしや過剰さはまったくなく、ただそれが事実であり、事実を表現するのに必要最低限のことであるからやるのだ、という芯から腹の据わった態度でこれでもかと言わんばかりに積み重ねていき、映画の大半を支配していく。
 スタローンによれば、これでも表現を押さえた方だ、とのことだが、この『ランボー 最後の戦場』という映画が本物なのは、これらの虐殺表現に、スタローンがいささかも快楽的なことを見いだすことなどはまったくなく(そんなことなら最悪だし、作る意味もない)、ただただひとえに「現場の労働」として、ひとつひとつの表現を作り上げたことにある。これは本当に凄いことだ。
 スタローンは決してイーストウッドのような聡明さを持って陰惨さに身を沈めることはないが、イーストウッドとはまったく正反対に、しかし彼にしかない愚鈍さを持って陰惨さの海に深く身を沈めている。かつて、蓮實重彦さんが、映画が陰惨になるのはアメリカの現実に肌を触れているからだ、ということを言っていたが、その意味において、スタローンは間違いなく「アメリカの現実」に肌を触れているのだろう。それは例えばペドロ・コスタとはまったく違うやり方ではあるが、しかし彼らはともに映画から身を引き剥がし、世界に肌で触れている。
 これはまったく揶揄ではないのだが、この映画の中でジョン・ランボーが(それはこの映画のシンプル極まりない原題である)ここまでの陰惨さに身を投じる根拠が、すでにステディなパートナーのいる(しかもそのパートナーはまったくどうしようもない奴として描かれている。すごいM度の高さだ)女性のため、と集約されてしまうところが本当にシンプルで驚く。そのことは誰が敵で誰が味方だかまったくわからなくなるほどの凄まじい闘いのシーンの最後に、望遠で捉えた遠距離の視線の切り返し一発で恋にやぶれたことを表現していることに明白だし、故郷のコロラドへと帰っていくランボーを捉えたラストのロング・ショットへの流れは、そんなむちゃくちゃな!と思いつつも、本気で映画を撮っているものにしか決して出し得ない、圧巻としか言うことのできない、力強い説得力をもってこの映画を締めくくっていた。スタローン自身が、ランボーの次回作はフォードの『捜索者』のようにしたい、と言っていたが、それは決して冗談として聞くべきではない。今の彼なら彼自身の『捜索者』を見事に撮ってのけるに違いないだろう。

[2008.6.16]