『マイ・ブルーベリー・ナイツ』 ウォン・カーウァイ

 エクセルシオールカフェでタイアップされているブルーベリーパイが気になっていた。ウォン・カーウァイの映画は、『花様年華』以降、『2046』「若き仕立て屋の恋」(『愛の神 エロス』の一本)と嫌いではない、わりと好きな映画が続いていたので、ブルーベリーパイとともに気になっていたのだ。
 公開からしばらく経った平日の最終回に、歌舞伎町の映画館でブルーベリーパイではなくマクドナルドのハンバーガーとフレンチポテトにチキンナゲット、そしてアイスコーヒーを持ち込み、チキンナゲットのマスタードソースをお気に入りの黒いパンツにこぼしながら見た。事前に知った数少ない情報によれば、この映画はカンヌ映画祭のオープニングで上映されたらしいが、この映画を見ていると、そのような格式張った場所ではなく(行ったことがないので格式張っているのかどうかよくわからない)、少々古びた映画館で、他の観客が周囲にほとんどいないリラックスした環境で見るのがいい映画だと思った。
 ニューヨークの街角のカフェで、売れ残ったブルーベリーパイをだしに、失恋したノラ・ジョーンズを口説くジュード・ロウ。トッピングのバニラアイスがブルーベリーパイに少しずつ少しずつ時間をかけて溶けていくように、彼女の失恋の痛手も旅先で出会った様々な人々との交流や、カフェやバーでの仕事の後に書き綴るニューヨークのジュード・ロウへの手紙によって少しずつ溶けていき、二人の関係も甘くスイートな結末を迎える。
 こんな話をブルーベリーカラーを基調にしたスイートな画面とエモーショナルなアメリカン・ミュージックをふんだんに使用しつつ、演出や編集はグダグダながら、それさえもはやある種の余裕として感じられる、熟達したルーズさで堂々と見せていく捉えどころのなさは、まさしくウォン・カーウェイの独壇場だ(誉めてます)。
 冒頭にも書いたように、僕にとって『花様年華』以降のウォン・カーウァイの映画は、決して心から痺れたり、寝ても覚めてもこの映画のことばかり考えてしまうといったような熱病的な体験ではありえないのだが(それ以前の映画は、ごめんなさい、根本的に全部苦手です)、見終わって数年の年月を経ても、どこかあの人物(主にトニー・レオン)やあの音楽(主にアストル・ピアソラ)が心のどこかにずっと残っている(つまりそれだけなのかもしれない)、文字通り「気になる」映画なのだ。
 正直に言って、『花様年華』以降のウォン・カーウァイの映画の魅力は、トニー・レオンやマギー・チャン、コン・リーといった最近の日本映画ではなかなか見ることの出来ない、むせ返る大人の魅力を携えた役者たちと、赤と黒を基調にした濃厚な画面(特に『花様年華』)、そしてエモーショナルで官能的な音楽、という要素でほとんど全てを語れると思ったりもする。というより、僕が彼の映画で好きなところはほとんどそれだけであり、それだけを提供してくれれば十分に見る価値のある映画なのだ。
 この『マイ・ブルーベリー・ナイツ』という映画は、よく言われるように、ウォン・カーウァイ初のアメリカ映画であり、正直にいって、バカバカし過ぎて見てられないどころか、逆に大笑いしてしまうようなところも多く見られたのだが(チキンナゲットのマスタードソースを笑いながらこぼした)、とはいえやはりアメリカ南部のカフェやバーを舞台に、オーティス・レディングやカサンドラ・ウィルソンらの聴くものの心を鷲掴みにするアメリカン・ミュージックが流れていれば、もうそれでいいではないかと思ってしまう。これはずるいと言えばずるいのだが、ウォン・カーウェイの場合、もはやそれが彼の映画の魅力の一つになってしまっているのだから、それはそれで良いのだ。この『マイ・ブルーベリー・ナイツ』という映画も、アメリカの風景とアメリカ映画の役者(ナタリー・ポートマンが素晴らしかった)、そしてアメリカ音楽を彼ならではの手法で一本の映画にまとめた、ちょっといい感じのアメリカ映画だった(正直に告白すれば、途中、少々寝てしまいました)。
 木田貴裕さんが別の場所でお書きになられていたが、「異邦人が撮ったアメリカ映画」としての『マイ・ブルーベリー・ナイツ』のナイスなポイントは、主人公の女性が失恋して旅に出る、という話を持っていながら、この映画をロードムービーにしなかったところにある。ニューヨークとテネシーやらアメリカ南部の都市が移動過程をほとんど描かれることなく、ポンとまるでワープしたみたいに直結される。これは『2046』でのSF的手法と同じであり、ウォン・カーウァイはこの『マイ・ブルーベリー・ナイツ』というニューヨークの街角とアメリカ南部を舞台にした小さな恋愛映画を、ほとんどSFとして撮っているのだと言って良い。時間も空間もポンポン飛びながら断片的に語られるこの小さくて甘い恋愛映画は、口に入れると留まることのない甘さが存分にひろがる、決して高級ではないが止められないアメリカのアイスクリームのようであり、食べてるときは、いくらなんでも甘過ぎるな、これは、と思いつつも、しばらく経つとあの甘さをまた思い出してしまう、不思議な魅力をもっている。
 映画のラスト、冬のニューヨークに戻ったノラ・ジョーンズを迎えるため、カフェの外で白い息を吐くジュード・ロウ。彼女を店に迎え入れ、実は旅立つ日にもここに寄ったのだ、でもあえて中には入らず、何も言わないで立ち去った、と彼女が告白する時に、不意に挿入されたフラッシュ・バックの中に薄く降りそそいだ雪を見る時、クリスマスの夜一人たたずむ『2046』のトニー・レオンと、そこに流れるナット・キング・コールの「クリスマス・ソング」を思い出した。『2046』のトニー・レオンとナット・キング・コールからは強い孤独感と喪失感が感じられたが、この映画の二人からは孤独感や喪失感ではなく、つねにどこかで結ばれてるという安堵感とスイートな幸福感が感じられた。ひょっとしたら、この映画の微弱だが捨てられない魅力は、そこにあるのかもしれない。
 映画を見終わって、息急きかけて歌舞伎町入り口のエクセルシオールカフェに向かったが、ブルーベリーパイはすでに売り切れており(実はブルーベリーケーキだった)、お気に入りの黒いパンツにはマスタードソースの黄色い跡が残っていた。ノラ・ジョーンズとジュード・ロウにおとずれたはずのマイ・ブルーベリー・ナイツは、僕にはまだおとずれていない。

『マイルス・デューイ・デイヴィス三世研究』 菊地成孔・大谷能生

 基本的にこの「日記」は、映画について書く日記のつもりだったが、少なくとも今年の上半期でもっとも重要な一冊であること間違いなしのこの本をぜひとも紹介したいので、急遽予定を変更します。
 兼ねてから出る出ると噂されつつも、延期に延期を重ねていた菊地成孔氏と大谷能生氏によるマイルス・デイヴィス研究書がついに刊行された。書店入荷日に胸の高鳴りを押さえられないまま、渋谷のブック1stへ行き、リコメンドコーナーに立てがけられた本書に手を伸ばすと、800ページ近い大著ということでそれ相応の覚悟はしていたものの、想像を遥かに越えて書棚の奥にまで手が入り込んでいき、思わずニヤニヤしてしまった。
 ドキドキしながら早速本書を購入し、文化村近くのセガフレードで最初のページをめくったが最後、それから一週間は寝ても覚めてもこの本をむさぼり読み、3日目には発熱した。発熱し、テレビを見ることや活字を読むことが困難な体調であるにもかかわらず、我慢できずにむさぼり読んだ。これほどまでに読むことの快楽と快活感に満ち溢れた本とは、久しぶりに出会ったと思う。一週間後、家の近くのフレッシュネスバーガーで最後の数ページをめくっていると、思わずぐっと込み上げてくるものがあった。良質な小説を読んでいて、ということならまだわかるが、「研究書」と名うたれた本で感無量のフィナーレを迎えるとは、なかなか想像つかないだろう。
 マイルス・デイヴィスは、その知名度の高さと裏腹の実体験率の低さという点では、映画におけるゴダールや最近では北野武に相応する名前だと思う。この本は、圧倒的に流通されているがゆえに核心を隠されたミスティック極まりない「マイルス・デイヴィス」という名前に、音楽の遍歴、作品構造の分析、衣装の変遷、女性遍歴の在り方、マイルスのセルフイメージの中でのレコードセールスと実数としてのレコードセールスの乖離と統合の変遷等、常人では考えつかない圧倒的に多角的な視線で「マイルス・デイヴィス」という神話的な名前を分析、検証していき、そこから更にチャーミングでミスティック極まりない、新たなマイルス像を提示することに成功している。そこで描かれた著者たちの「マイルス・デイヴィス」がとてつもなく魅力的なのは、決して「正しい」マイルス像を再現することよりも、ブラフや誤読、嘘や妄想をもマイルス特有の「ミスティフィカシオン」として読み込んでいく、著者たちの優れてマイルス的な態度にあり、この態度は圧倒的に豊穣であり「正しい」。
 さらにこの本のコンセプトとして白眉だったのは、マイルスの特性は、ディケイド単位での文脈をひっくり返し作り替えるといった、垂直構造としての「革命」という概念ともっとも折り合いが悪く(それは、チャーリー・パーカーのビバップであり、オーネット・コールマンのフリージャズでもあり、つまり圧倒的な爆発力によって時代の先頭を切り開く能力のことを指す)、世界の構造を常に注視しながら、水平的に音楽(世界)の意匠(衣装)を衣替えていき、つねに一歩遅れて世界(音楽)の「モード」を圧倒的なクオリティーでチェンジしていく能力にあるという、パースペクティヴを提示したことにある。この「モード・チェンジ」という不透明なまま曖昧に流通していたマイルスの代名詞的な言葉を、全く新しい豊穣な概念で読み替えた著者たちの力量に感嘆した。
 ビバップのミュージシャンたちは、何日も着古したズートスーツで路上生活を送ったりするが(パーカーもオーネットもアルバート・アイラーも皆ルンペンだった)、マイルスにはそのようなことはできない。ジャズという、黒人音楽の代名詞的なジャンルのトップランナーとして君臨し続けたマイルスは(後には「帝王」と呼ばれるまでになる)、セントルイスの裕福な黒人層として生まれ育ため、そのことがつねに「黒人でありながらより黒人たろうとする」という、アイデンティティのアンビヴァレントを形成しており(他にもマイルスが多数のアンビヴァレンツを形成し、抱え込んでいくさまを、著者たちがこれでもかと指摘していくところもこの本の白眉である)、それゆえ、パーカーを始めとするビバッパーたちやオーネットを始めとするフリージャズのミュージシャンたちのような、人種や階層に根付いた革命=プロレタリア的な生活にマイルスが生涯適応できなかったという指摘も目から鱗であった(確かマイルスは30歳になるまで仕送りというか小遣いを親から貰っていたボンボンなのである。余談だが、オーネット・コールマンは、世界文化賞の受賞に対して、貧乏人の音楽が金持ちの人に認められて嬉しい、とコメントしたが、マイルスは逆立ちしてもそんなことは言わないし、言えない)。
 これらのことが、東大での講義録をベースにしているため、口語体で読むものに馴染みやすく書かれており、一年一年編年体表記で出来事が追われているため(時にジグザグに錯綜し、複雑化することもあるが、それもこの本の魅力の一つだ)、読みやすい。二人の人物で書かれた大部の書というと、例えばドゥルーズ=ガタリがすぐに思い出されるが、この本の仕事の奇跡は、マイルス・デイヴィスと彼の編集者であるテオ・マセロという(この二人の関係は、マイルス・ミュージック最大のミスティフィカシオンとして、本書の中心的なテーマとなっている)、今もって謎に満ち溢れた不世出の二人の仕事になぞらえるべきなのだろう。質量ともに、これほど反資本主義的な体裁をもった本が今出版されることに、多大なる驚きと共に、心からの喝采を送りたい。ぜひともご一読を!

[2008.4.27]