『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』 ホウ・シャオシェン

 この日記を始めて早や半年が過ぎ、21世紀日本特有の東南アジア型熱帯猛暑(スコール付き)を迎え毎日ひいひい言いながら間もなく撮影を始める『シャーリーの好色人生』(シャーリー・テンプル・ジャポン(以下stjp)・パート3)の準備に明け暮れている。
 この『シャーリーの好色人生』という中編劇映画は、冨永昌敬監督による『シャーリーの転落人生』(stjp4)との二本立て公開ということで制作される作品なのだが(年内に池袋シネマロサにて公開予定)、拙作stjp3は水戸短編映像祭の方々の全面協力による一種の「水戸市のPR映画」として制作できればと考えており、他方、冨永さんのstjp4は仙台メディアテークを中心とした仙台の皆様の全面協力によって宮城県塩竈市で撮影された「塩竈市のPR映画」(仙台の皆様協賛)としての趣を十分に兼ね備えた作品として制作されている(4の方はすでに撮影を終了し、編集が佳境を迎えている)。
 いずれにせよ、『シャーリーの好色人生』は一週間後には撮影に入り、9月に開催される水戸短編映像祭にて早くも二本立てのプレミア上映が行われるというスケジュールで進行しているので、現在の僕はサークはおろか、ほとんど何も映画を見ることができていない。うう。
 本当に眠る直前に薄れ行く意識の中、悔し紛れにDVDで『天が許したもう全て』(サーク)だとか、『私はゾンビと歩いた』(ターナー)だとか、『恐怖のまわり道』(ウルマー)だとかが映ったテレビ画面を漫然と眺めながら、時おり、ウオッ!、とか、ウヒョー!、とかいうことしかできずにいるのだが、というわけで、この一ヶ月の間に劇場で見た封切り映画は『インディ・ジョーンズ4』と『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』のみであった。ううう。
 ゴダール(『ゴダールの探偵』『ゴダールのリア王』など)、フェリー二(『フェリーニのローマ』など)、トリュフォー(『トリュフォーの思春期』など)、最近ではコッポラ(『コッポラの胡蝶の夢』)などとともに、とうとうホウ・シャオシェンの自身の冠映画となったこの『ホウ・シャオシェンのレッド・バルーン』、こともあろうにホウ・シャオシェンの新作が、2週間のみ、一日一回の限定上映で公開されているということを知った時には、一瞬この目を疑ったのだが、まあどうにもそういうことらしいので撮影準備でてんやわんやの一瞬の隙間を縫って、うだる暑さの中、銀座に駆けつけた。
 実は恥ずかしいことにラモリスの『赤い風船』と『白い馬』は未見なので(見たいので頑張って見に行きます!)、それらと並べて語ることはできないのであるが、これが何とも小さくてかわいらしくて、大胆な、詩人の境地とでもいうのか類稀なる希薄さの極みに達したかのような素晴らしい映画だった(映画監督に対して「詩人」という表現は下手をすると嫌味になるのだが、この場合は純粋に賞賛の言葉として受け取っていただきたい)。
 この映画を見ている間、時おり成瀬巳喜男の『流れる』のことを考えてしまったのだが、それはある家庭というか、人の出入りの激しい家に女中(『流れる』)やベビーシッター(本作)といった外部の視線を持った異邦人がやってくるものの、彼女ら自身は決してドラマや事件を家の中に持ち込むわけでもなく、あくまで無力で透明な存在として、主人の家に降り掛かってくる数々の出来事を見つめて行くのみという散文的な世界観や、赤い風船が見つめるパリの街の在り方が、『流れる』の隅田川が見つめる柳橋の在り方を思わせることなどがあるのかもしれない(あるいは、『東京物語』について吉田喜重監督が指摘した空気枕が見返す東京の街とも近いのかもしれない)。
 この映画は、ジュリエット・ビノシュが担う大人の世界を相対化する子どもの視線と、あくまで子どもの視線に寄り添いながらも、彼ら親子の世界を相対化する、ベビーシッターであり中国からの留学生でもあるソン・ファンがもつ異邦人の視線、さらにそれら生活の営みそのものを相対化し、パリの街ごと見つめる赤い風船の視線という、三つの異なる階層の視線によって構成されている。
 先ほどこの映画のことを「希薄さの極み」と書いたのは、この映画で語られる物語が原題通り(『赤い風船の旅』)、あくまで旅する赤い風船の視線によって語られているからである。大人のジュリエット・ビノシュが複雑な感情に囚われようが、子どもがすねようが、留学生であるベビーシッターが戸惑おうが、旅の流れでひょっこりパリの街に現れた赤い風船はみんな見てましたよ、というほとんど絵本のような希薄で残酷な素晴らしい視線で語られた映画だと思う。かつて、ホウさん自身がカルヴィーノの言葉を引用し、真実は表層に宿る、と語ったが、この映画などまさにその言葉を見事に表現した映画だろう。
 映画の終盤、ジュリエット・ビノシュ不在の中、異邦人のベビーシッターの動きに沿ってキャメラが初めてロフトに上がり、彼女が眠っている子どもに話しかけるとパンアップしたキャメラが天井の磨りガラスを捉え、その少々曇ったガラス越しに赤い風船がフレームインした時(二重のフレームにインしてくる)、それら三つの外部の視線の持ち主がこの映画中初めて一つのショットに収められることになる(ただし、磨りガラスを挟むことによって、子どもと異邦人を見つめる赤い風船、というように、厳密に子ども/異邦人と赤い風船の視線は区別されている)。このショットを目にした時思わず、ああ、この映画はこのショットから全て逆算して構成されていたのか、と全てが腑に落ち、確かな必然を持って感動した。
 また、そのシーンの少し前、盲目の調律師(子ども、異邦人、風船とも全くことなる視線の持ち主だ)がやってきたシーンが素晴らしい。視線すら持たない更なる家の部外者の手によって、フレーム内のオン空間の中で鳴り始めたピアノの調律音が、感情を昂らせたジュリエット・ビノシュが画面に現れるといつのまにかフレーム外のオフ空間から鳴り響き、彼女の感情に対する異化的な劇伴のように聴こえ方が変化する。更に娘との電話を経て彼女の感情が幾分柔らかになると、今度は見事に彼女の感情と調和したような柔和な表情でピアノの音が聴こえてくる。このジュリエット・ビノシュの複雑な感情の変化が1ショットの内に見事に表現されたシークェンスでの音の演出は本当に白眉だと思う。
 本作においても相変わらず、リー・ピンビンのキャメラは冴え渡っているが(若干今までよりもリスキーな感じは減ったような気はするものの)、クレジットを見るにホウ組常連の録音技師ドゥ・ドゥージは現場での録音作業には立ち会っていないようであり、完全にスタジオでのミックス作業のみに終始したようだ。ならば、何やらいよいよホウ組の録音技師も、ゴダール組のフランソワ・ミュジーよろしくの自在の境地に達したようだと思い、いよいよ更にホウ組の今後が今まで以上に楽しみになる。
 最後に、ホウ・シャオシェン自身が、子どもの演出が少し上手く行かなかった、ということを述べていたが、劇中ジュリエット・ビノシュが子どもとのツーショットで何かを諭している時(具体的にどういうシーンであったかはさっぱり忘れた)、子どもが横を向いたままで全く母の目を見ようとしなかったシーンにのみ、あれ、これでいいのかな、なんだかホウさんらしくないな、と感じたことはあったものの、しかし現在において、これだけ人を食った素晴らしい映画(凄い褒め言葉です!)を撮れる人は、やはり世界でもホウ・シャオシェンかアッバス・キアロスタミだけだろう(ゴダールとオリヴェイラは少々図抜けているので)。この映画が、添え物としてだけではなく、少しでも多くの人に見られることを望みます。傑作。

[2008.8.10]