『ランジェ公爵夫人』 ジャック・リヴェット

 考えてみればここまでこの「日記」で取り上げて来た映画は、全てキスの演出に映画全体のウェートをかけた映画だった。『ミスター・ロンリー』の少々暴力的なキスにしろ、『人のセックスを笑うな』の古典的ともいえるキスにしろ、『接吻』の21世紀的、活劇的な生命の躍動(死の衝動?)に満ちたキスにしろ、『マイ・ブルーベリー・ナイツ』のスチール的でスウィートなキスにしろ、これらの映画はやはりここぞという時にキスシーンを持って来ている。
 映画では、なかなかセックスシーンをここぞというタイミングで持ってくることは難しいので(それらはどうしても人物たちが寝ざるをえないので、どちらかといえば滞留した時間を描くことになる)、やはり人が死ぬというシーンか(そういえば人が死ぬ場合も人物が寝ざるを得ない)、あるいはキスシーンが一本の映画を構成する上で、監督にとっての腕の見せ所というか、一つの醍醐味になってくることは、21世紀に突入して早8年が過ぎた現在に至っても、なかなか否めない(が、最近はそういう映画も少なくなって来た)。
 映画のなかのキスシーンにおいて、見ているわれわれはいったいどのようなことを感じるのかということを考えれば、例えば「官能」(ヒッチコック)であったり、あるいは「喜び」(ルノワール)であったり、別れの場面であれば「悲哀」(オフュルス)であったりすると思うのだが、例えば『接吻』のキスシーンが素晴らしいのは、これらのどの効果にも還元されない全く新たな効果を生み出したことにあると思う。
 では、この齢80を迎えたジャック・リヴェットによるこの映画のなかでキスシーンはどのように演出されているのだろうか。と、書いてみたが、実はこの映画にキスシーンは存在しない。というより、ジャンヌ・バリバールとギョーム・ドパルデューという、油の乗り切った男女二人の素晴らしい俳優に、いかにキスをさせないか、という一点にかけられた演出が素晴らしいのだ。
 いつキスをしてもおかしくないシチュエーションにつねにあり、ああ、もう!という、吐息が漏れてきそうなくらい、きわきわまで互いの唇を近づけながら、二人は決してキスをしない。もちろん、この「禁じられたキス」というモメントは、心は許しても身体は許しません、という夫人にとっての淑女の振る舞いであり(男から見ればこの上なく悪女の振る舞いでもある)、ゲームの規則の一環として説明されるのであるが、この語の正統な意味において「名優」二人に設けた「キスの禁止」という規則に最も嬉々としているのが他でもない、この作品の監督であるジャック・リヴェットだろう。
 全体の8割以上を占めるであろう、室内シーンにおける演出が冴えに冴え渡っている。時にむせ返る色香を放つ二人の身体を残酷なまでに引き剥がし、時に二人の唇以外の身体全てを官能的なまでに密着させ、見つめ合ったかと思えば頑に視線を逸らし合う二人に嬉々としている(この映画は唇による接触を禁じることから発生する、男女の視線劇だ)。もちろん、ビュル・オジェやミシェル・ピコリ、地味ではあったがメイド役の女の子もとても素晴らしかったが、この映画の演出家であるジャック・リヴェットにとって、ジャンヌ・バリバールとギョーム・ドパルデューという、まもなく40の齢を迎える大人の色香に満ち溢れた男女二人の俳優を演出していくことの喜びといったらなかったろう。画面を見つめていくにつれ、見ているこっちまで思わず嬉々としてしまった。
 さらにキャメラが盟友であり、現存する世界最高のキャメラマンの一人であるウィリアム・リュプチャンスキーなのだから、リヴェットは安心して俳優の演出に専心できたのだろう。キャメラの向こうで仕事をする俳優、キャメラの手前で仕事をするキャメラマンを主とした技術スタッフの協力関係が、キャメラの手前と向こうを往来する監督ジャック・リヴェットを中心にとても自由度が高く、しかも同時に厳密でもあるという、素晴らしい仕事ぶりだった(衣装がまたいい!)。
 前作『Mの物語』(これはやっぱり原題通り『マリーとジュリアンの物語』の方がしっくりくる)では、エマニュエル・べアールとイエジー・ラジヴィオヴィッチによる大胆なセックスシーンで大いなる「官能」を感じさせてくれたリヴェットが、今作ではキスだけは絶対に交わさないことによって「官能」を感じさせてくれている。この二つの「官能」の違いは、エマニュエル・べアールとジャンヌ・バリバールという女優の特質が大きいのだと思うが、キャスティングと主題が見事にマッチした素晴らしい選択の好例だと思う。
 最後に、誘拐されたジャンヌ・バリバールがギョーム・ドパルデューに、自分の家畜に押すように焼き印を押してくれ、と懇願する時の彼女の恍惚とした表情と(この台詞がとてもいい)、終盤、家を飛び出だしたバリバール演じるアントワネットが、モンリヴォー(ドパルデュー)の家の前で待ち続ける時に吹きすさぶ風が素晴らしい。この時の風になびく衣装も見事だが(コスチュームはコルセットプレイではないのだ!)、無造作に敷かれた藁の効果と、バリバールの孤独な居住まいは、慣習に囚われた保守的な家を自らの意志をもって飛び出す、高貴で美しい女性像の新たなイメージとして、成瀬巳喜男の『女人哀愁』の入江たか子や、ドライヤーの『ゲアトルーズ』のニーナ・ペンス・ローゼのイメージとともに、見るものの心に強く残り続けるだろう。

『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』 ポール・トーマス・アンダーソン

 ポール・トーマス・アンダーソンの映画は、前作『パンチドランク・ラブ』とデビュー作の『ハード・エイト』しか見ていない。どちらかと言えば彼の作品のなかで評価の高いというのか、話題をさらった『ブギーナイツ』と『マグノリア』は見ていない。でも、『パンチドランク・ラブ』と『ハード・エイト』はとても好きな映画だった(とりわけ『パンチドランク・ラブ』は素晴らしかった)。
 さて、この『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』であるが、前評判から凄い凄いという声を多数聞いていたので、あまり過剰に期待をしないように、とは思いつつも、とても楽しみにしていたのだが、蓋を開けてみれば、噂に違わぬ快作であり、実際渋谷の映画館で僕の前の列の座席にかなり途中から入って来て、エンドクレジットの前に颯爽と出て行ったハンプティ・ダンプティのようなおっさんは、映画のラスト、ダニエル・デイ・ルイスが最後の台詞を発した瞬間に、うははははー、と笑いながら拍手をしていた。これはある意味正しい鑑賞の仕方だと思う。
 新作に関してはほとんど前もって情報を持たずに見ているので、序盤のあたりはフォードの『我が谷は緑なりき』のような炭坑労働者の側からの生活の営みを描いた映画なのかと思って見ていたが、しかしそれには豊かな女性たちがあまりに足りない。はて、と思っているところに、それまでまだ齢のいかない年少の息子を石油試掘産業のパートーナーにしていた主人公に、弟と名乗る人物が現れる。この人物との出会いのシーンの演出がなかなか面白いのだが、この弟と名乗る人物は、平たく言えば、全くの「他者」というよりも、主人公の合わせ鏡のように描かれている。
 主人公を入れ込んだ主観気味の長廻しショットの見た目として登場した弟と名乗る人物との初対面の場面で、いったいいつ主人公の顔へ切り返すのだろうか、とドキドキしながら見ていると、どうも一向に切り返す気配がない(この主観気味の長廻しはどうもこの監督の顕著な特徴なのだろう。前作『パンチドランク・ラブ』でもこの演出が狭い室内のなかで大変な効果をあげていた)。キャメラは結局、主人公であるダニエル・デイ・ルイスの動きに着いていき、彼が件の人物に接近する折を見計らって彼ら二人をフレームの両端に捉える。それは鏡に初めて相対した人間のリアクションのように描かれており、その瞬間、ああ、この二人は同一人物なんだ(「同一人物であるように描かれている」ということです)、ということに気付き、更に、この自らの反映である男をパートナーに選び、聴力を失い得体の知れない「他者」となってしまった息子をパートナーから見切る様を見るにつれ、ああ、この映画は『市民ケーン』なんだな、「アメリカのスーパーリッチはつねに公式の友人が一人でなくてはならない」と阿佐田哲也が『市民ケーン』評で書いていたな、などと思いつつ、さらにこの「弟」と名乗る男とのやりとりを見るにつれ、いよいよもってダニエル・デイ・ルイスが鏡に向かって一生懸命語りかけているようにしか見えず、ああ、この映画はハワード・ヒューズのような巨大な妄想に囚われた「アメリカ」の男の物語なのだ、とやっとのことで気付くのであった(『アビエイター』)。
 この『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』という映画、撮影もなかなか素晴らしく、とりわけロケーションでのローアングルで捉えられた長廻しや(蒸気機関車とともに車がまたいい)、パイプラインの測量のシーンなどで不意に挿入される緑と光が美しい奥行き豊かな縦構図のショットなど、一目で、ああ、こんな広いところで思う存分映画が撮れていいなあ、と思わざるを得ない豊かなショットが数多く散見された。
 他にも石油が発掘される場面での撮影現場での労働力など(よくわからないのだが、あの燃え盛る炎と石油はCGなのだろうか。もし実際に現場でやっているのであれば本当に凄いことだが、どちらにしても途方もない労働を要請する素晴らしい仕事だ)、見ていて想像するに、本当に感心する部分がとても多い映画であった。
 ただ一点だけ、腑に落ちないというか、少々嫌悪感を抱いた部分がある。それは、この映画の重要なエピソードの一つとなっている、ポール・ダノ演じる新興宗教の宣教師に関する一連の場面であるが、あの宣教師や信者たちの描き方がどうも微妙な感じがしてならなかった(実際に、この宣教師は、本当にしょうもないやつだったようなので、このような描き方になるのはやむを得ないのかもしれないのだが)。個人的な感覚でいえば、これら一連のエピソードの描かれ方は、『奇跡の海』や『ドッグヴィル』などのラース・ファン・トリアーに近い描き方ではないのかと思った。そして、僕は、これらのフォン・トリアー映画も全然好きではない。というか、どちらかといえば嫌いだ(ファンの皆様、すみません)。まあ、そんなこと言ってもしょうがないのかもしれないですが。
 恐らくこれらのエピソードの描き方は、まだ未見の『マグノリア』の要素がかなり色濃く出た部分なのかとも思った。とはいえ、映画のラスト、ダニエル・デイ・ルイスが呟く台詞にブラームスの軽やかなヴァイオリン協奏曲がかぶさり(ちょっと80年代のゴダール映画のエンディングのような軽快感だった)、重厚でもありポップでもある、なかなか見事なエンドタイトルが出て来たおり、まあ、この嫌な部分も全てひっくるめて一つのオペラ・ブッファというのか、全てを均等に並べて軽く笑い飛ばしてくれればいい、ということなのだろうかと思い、なんにせよ、目の前で拍手して笑ってるおっさんの気持ちはよく分かると思うのであった。いずれにしても、同じくダニエル・デイ・ルイス主演によって19世紀のニューヨークを描いた『ギャング・オブ・ニューヨーク』などと共に「アメリカ」を主題にした本作を見ていると、今や自国の「起源」を主題に映画をつくる国は、ロッセリーニ亡き後のイタリアにその気配を感じない現在において、もはやアメリカ合衆国くらいなのではないだろうか。アメリカ映画の底力を感じさせる一本であった。

[2008.5.25]