『人のセックスを笑うな』 井口奈己

 キスシーンが素晴らしいと聞いたのでドキドキしながら見に行った。何回行けどもいつも満員で見れずじまいだったのだが、公開から一月が過ぎてやっと見ることができた。
 またしてもで大変恐縮極まりないのだが、井口監督の前作『犬猫』は8ミリ版、35ミリ版ともに見ていない。なので、この監督の作風や主題の変化などを語ることはとてもできないのだが、この映画を見てるあいだ中、どうしても黒沢清と北野武の名前が頭から離れなかった。こんな風に見られてこの映画にも井口さんにも本当に失礼極まりないのだが、しかし北野武はまだ置いておくにしても(シーン変わりの編集にコントのようなオチがついているくらいの意味)、黒沢清の名前は最後まで消えることはなかった。
 だからといって、似ているとか影響がどうのとかということはあまりよく分からないので(実際に井口監督が黒沢さんの現場についていたという事実があるにしても)、これはつまりどういうことかと考えていると、映画美学校在学中に、ある三人の講師たちがそれぞれ、リュミエール、グリフィス、メリエスという映画作家について語っていたことを思い出した。三人の講師とは、それぞれ黒沢清(リュミエール)、西山洋市(グリフィス)、筒井武文(メリエス)各氏である。
 この三人の講師たちの人となりをそれぞれ知っている方からすれば、なるほど、なんとなく頷ける組み合わせではないかと思うかもしれないが(思わないかもしれない)、それはひとまず置いといて、黒沢さんが講義で何を話されたかといえば(これは多分何かの本に載っていると思う)、リュミエールの名高い『列車の到着』という一分足らずの映画を見せながら、キャメラをいったいどこに置くべきなのかをつねに考えること、ではどこに置くべきかと言えば、それはつねになにかが起こりそうに感じられるところである、というようなことを話された。
 『列車の到着』という映画を見たことがある人なら分かると思うが、駅のホームを舞台に画面の奥から列車がするするとやってくるところを捉えた一分ばかりのサイレント映画なのだが、このリュミエールのポジションにキャメラを置くべきだ、と黒沢さんはお話しになられた。実際黒沢さんの映画には、ある時から(最初からとも言えると思う)そのような位置にキャメラを置いたサスペンス豊かなショットが多く散見するようになり、例えば『大いなる幻影』などはほとんどそれだけで成立しているような映画だと言ってもいいかもしれない(最近また別な方向を模索しておられるようだ)。
 つまり、こんなことは普通に映画をご覧になっていらっしゃる方々にとって、いったいどうでもいいことなのかもしれないが、この『人のセックスを笑うな』という映画は、ほとんどこのリュミエール=黒沢清的な原理に従って撮影された映画に見えて仕方がなかった。
 この「何かが起こるかもしれない」というキャメラポジションにキャメラを置くと、なぜだろうか、ほとんどの場合いわゆる「縦構図」と呼ばれる、画面に奥行きを感じさせる位置関係などの説明を排除した抽象的な構図になることが多い。例えばロケであれば、川や道の消失点が画面の中に取り込まれている構図であり(横や斜めになると、消失点は画面の外に出され、人物の位置関係などがかなり明瞭になる)、室内であれば画面の奥に向かって人物や物を2つか3つのレイヤーに配置して、画面の奥行きを具体的に構成する構図である。
 この『人のセックスを笑うな』という、年上の女性(永作博美)に恋をした美術学生(松山ケンイチ)と、その彼に恋をする同級生(蒼井優)とによる恋愛映画では、もちろん厳密には縦構図だけではなく、バス停のある一本道のショットや、河川のショットなど真横から捉えられた横構図のロングショットも巧みに配置されているのだが、やはりここぞという人間関係の変化(あるいは、変化しそうな)を描く場面においては、徹底して縦構図で演出されている。先に上げた印象深い一本道のショットなど、横構図で取られたロングショットは、どちらかといえば物語を進行させる場面の演出として採用されている。
 なかなか冒頭に書いたキスシーンにまで話が辿り着かくて我ながら心配になってくるが、この『人のセックスを笑うな』という映画は、いわば、映画の「始まり」とされているリュミエールに忠実に映画を撮ることによって、映画の原理に立ち返ろうとする「映画原理主義」によって撮影された恋愛映画だということになる。しかし、この井口奈己という監督は、いったいなぜこのなんてことのない緩い三角関係(実は四角関係)の恋愛映画をこのような原理に基づいて演出したのだろうか。
 さて、いよいよ問題のキスシーンであるが、確かに幾度かある永作博美と松山ケンイチ(今やマツケンと言えば、サンバではなく彼のことを指すということを二週間くらい前に初めて知った)のキスシーンにこの映画の全てが懸けられていると思えてしまうくらい、実に周到に撮影されていた。
 寝ているときのキスシーンは別として(しかし、この映画では、寝ているときのキスシーンも、立っているときと全く同じ呼吸で演出されている)、キスシーンと言えば、ヒッチコックにしろ、ジャン・ルノワールにしろ、古典ハリウッド映画のほとんど全てがそうなのだが(というより古典ハリウッド映画によってキスの撮影方法は発明された)、キスに至る直前のなんやかんやしている様子をフルショットくらいで撮影しておきながら(ちなみに、このショットを縦構図で演出しているとかなりのテクニシャンだと思う。と、書いて今ぱっと浮かんだキスシーンはルノワールの『捉えられた伍長』だった)、さあキスするぞという距離に二人が近寄った瞬間バストショットに切り替わり、互いの唇が触れ合えばあとは『汚名』のように二人の周りをぐるぐるキャメラを旋回させたり(多分そうだったような気がする)、どちらかの顔が見えるようにアングルを切り変えたりするのだが、『人のセックスを笑うな』のキスシーンは、それ以外のほとんど全てのショットにおいて人々が無防備なほどばらばらに動いており(それはもちろん演出による狙いであり、縦構図のキャメラポジションはそのことと深い関わりをもっている)、だからより一層永作博美と松山ケンイチがキスの射程距離に近寄った瞬間、ふとキスの当事者である二人の呼吸が同調する時、この一瞬のために私は今まで息を潜めていたと言わんばかりにキャメラがバストショットに切り替わる。この瞬間、分かってはいても、やはり思わず息をのまずにはいられないのである(二人が最初にキスをするまでの作業部屋でのショットの切り替えは本当に見事だった)。このあたりの計算された演出を、なんのてらいもなく、実に堂々とした演出で撮り切るこの監督は、そうとう腹の据わった方であるに違いない。
 だから、この『人のセックスを笑うな』という映画は、タイトル画面だとか、字幕のフォントだとかの一見かわいらしいようなデザインに騙されてはいけない。どうみてもこれはかわいらしい映画なんかでは決してないはずなのだ。だがしかし、終映一番に「かわいかったねー」という女性の声を聞いた時、私は「かわいい」で済まされることとはなんと恐ろしいことか、と思うのであった。
 と、他にも音の演出を始め(『珈琲時光』のことを考えながら見ていたところも多い)、この映画の良いところを上げ始めると切りがないのだが、ここまで引っ張っておいて、実は僕はこの映画にそんなに惹き付けられたわけではなかった。かつてトリュフォーが、優れた映画とは、監督の世界観と監督の映画観の両方が優れている映画のことをいう、と書いていたが、それに倣えば、どうしてもこの映画で描かれている世界観が優れているとは全く思えなかったため(愛のない人間なので、彼らの煮え切らない関係をどうしても微笑ましく見れなかったのです)、どうしても本気でのめり込めなかった。ここではたった一言、溝口だったら、あの二人をもっと追い込んで追いつめ、ひいー!っと言ってもまだ追いつめ、キャメラは、ポジションなどは後からついてくるものだ、と言わんばかりに執拗について行き、二人の行く末をどこまでも追って行ったはずだ、と言いたい。原作ものであるし、無い物ねだりをしてもしょうがないのは百も承知ではありますが(無い物ねだりをされると監督は本当に困る)、つまりこの映画は大変良くできた「現代日本映画」なのです(本当に、このレベルの日本映画はそうそうないと思う)。決してドラッグ的なことを期待しているわけではなく、全てにスリルが足りない。

[2008.3.1]