『コッポラの胡蝶の夢』 フランシス・フォード・コッポラ

 マット・デイモン主演の『レインメーカー』(1997)以来、コッポラ10年ぶりの新作が完全自主制作でかつHDビデオ撮影という記事を何かの雑誌で目にしたのはいつのことだったか。思い出そうとしてみたものの、まるで思い出せない。
 前作『レインメーカー』は、僕が初めて劇場で封切り時に見たコッポラ映画であり、確か大阪の今は無き北野劇場で見たような気がする。10年前にはまだ年に数本を劇場で見れば良い方だった僕は、取り立てて意識することなく、暇つぶし程度の心持ちでこの映画を見たのだった。前情報もほとんど知っておらず、マット・デイモン主演のヒューマンドラマ程度の認識で映画を見始めたのだが、これがコッポラの映画だとは映画を見終わってもまるで意識しなかった。
 もちろん当時の僕にとって、フランシス・フォード・コッポラという名前は、『ゴッド・ファーザー』三部作や『地獄の黙示録』の監督として、しかと記憶されてはいたものの、それ以外の作品のことはまるで知る由のない、曖昧な存在でしかなかった。付け加えれば、もちろんその頃はまだ、ソフィア・コッポラ(娘)もローマン・コッポラ(息子)もジェイソン・シュワルツマン(甥)も、まだまったく世間に知られていない。
 当時の僕にとっては、『ゴッド・ファーザー』ですら、日本の誰もが口ずさめるといって良いあの「愛のテーマ」を作曲者であるニーノ・ロータという不世出の映画音楽家の名前とともにではなく、某アメリカのハードロックバンドのギタリストが自らのソロタイムに哀愁たっぷりに奏でるロックバラードとして馴染んでいたくらいである。
 あれから10年の年月が過ぎた。あれから数年の後に、思っても見ない流れで僕はいわゆる映画狂になり、そしてあろうことか、自分でも映画を撮り始めることとなった。
 10年前のあの時に見た映画が、例えば『地獄の黙示録』であったのなら、この映画を作った人間のことを全く意識せずに見たとしても、終映時にはフランシス・フォード・コッポラという名前を強烈に意識することになったかもしれない。しかしあの時僕が見た映画は、『ゴッド・ファーザー・パートⅡ』でもなく、『地獄の黙示録』でもなく、『レインメーカー』だったのであり、フランシス・フォード・コッポラという名前は、とりたてて僕のなかに強烈な何かを残したわけではなかった。
 もちろんこのことは『レインメーカー』がつまらなかったということではない。封切り時より全く見直してないので、もはやほとんど内容を憶えていないのだが、鑑賞時にはとても面白く見たことは良く憶えている。なにか濃密なドラマをしっかり描いた「良質のアメリカ映画」を見たというような感想を抱いたことは間違いない。それどころか、初めて見たコッポラの映画が、いささかも「コッポラ」という名前を意識させない映画だったということにこそ、今では大きな興味を抱いているほどだ。
 あれから10年、コッポラは一本の映画も監督していない。
 もちろんこの「コッポラ不在の10年」の間に、ビデオやDVDで彼の映画を、全てではないものの、それなりに見ていくことになる。とはいえ、この10年の間に映画を撮り続けていたスピルバーグやスコセッシらと比べて、コッポラと僕の距離は終始曖昧なまま揺れ続けていた(というより、ほとんどコッポラのことを意識をしていなかった)。
 この10年間に作った作品において、スピルバーグの動向は興味深く見つめて行くことになるものの、スコセッシにはほとんど見切りをつけ、いわんやルーカスにおいては、とりたてて才能もないのに撮り続けないということは、やはり映画監督として致命的なのだ、という当たり前の事実を確認しただけである。そしてコッポラはといえば、僕が見た数少ない映画のなかでいえば、本当に熱狂した映画はまだないものの、本当にダメだと思ったり、本当につまらないと思ったことは一度もない(おそらくもっとちゃんと全部見て行けば、かなり好きな映画が出てくると思う)。
 そして新作『コッポラの胡蝶の夢』である。まず始めに大きな感想として、この映画はとても面白かった。画面を見つめているだけで直接素晴らしさが伝わってくるエモーショナルなシーンと「言葉の起源」をテーマとしたコッポラ一流の哲学的な表現を重ねたシーンが複雑に混在していることが、この映画独特のヘヴィなうねりというのか、太くて大きな見応えになっていると思う。
 とはいえ、ドラマとしては雷に撃たれたショックで若さと尋常ではない記憶力を取り戻した主人公(ティム・ロス)と、落石にあったショックで無意識に言葉の起源を遡っていくことによって日に日に老いてゆくヒロイン(アレクサンドラ・マリア・ララ 彼女がアンゲロプロスの新作のヒロインを務めているということは、なにかとても納得のいく話だ)との切ないラブロマンスともいえるし、映画の結末に主人公が迎えるいいようのない孤独感は、何か1940年代のオーソン・ウェルズの映画を見ているような、アメリカ映画ならではの素晴らしい表現で見るものの心をぐっと掴む。
 この映画の見所ともなる素晴らしいシーンはたくさんあるのだが、なによりもクリスマスのシーンの表現力に目を見張った。かつてのクラシカルなアメリカ映画では、クリスマスを描くことによって、家族の暖かさと個人の孤独の両面を降り積もる雪の白さの中で見事に表現することに素晴らしい成果を挙げていたが、今コッポラほどクリスマスの雪の白さを身を引き裂くような孤独感とともに描ける作家は他にいないのではないだろうか(コッポラの痛切で重厚な表現とは全くことなるが、『マイ・ブルーベリー・ナイツ』のウォン・カーウァイはその類稀なる軽薄さにおいて、なかなか良い線をいっていたように思う)。
 他にも駅のプラットホームを描いたシーンも、近年稀に見る充実した素晴らしいシーンだった。物語的には、わりとさらりと扱われているシーンではあるが、夜のプラットホームに漂うスモークが映画に素晴らしい奥行きとサスペンスを与えている。また、失った妻と娘(血は繋がっているのだろうか)の写真をこれほど郷愁を込めたショットとして扱った映画もそうそうお目にかかれるものではない。
 これだけ素晴らしい見所満載のシーンを、混濁した時間と分裂した主人公の意識のなかに捻り込む手法はまさに『地獄の黙示録』のコッポラ独自のものであり、その余りの自由奔放ぶりに少々困惑してしまうところはあるとしても、とても素晴らしく見応えのある映画だと思う。恐らくこの映画をコッポラの名前を意識しないで見る観客は、少なくとも日本にはほとんどいないと思われるが(なにせ「コッポラの」と冠のついたタイトルなのだから)、どこかの国で、コッポラの名前を意識せずにふらっと見てしまった少年や少女がいたとすれば、彼(彼女)らの胸の内には、フランシス・フォード・コッポラという名前が強烈に刻み込まれるに違いない。が、そのことがいいことなのかどうなのかは、僕には良くわからない。とはいえ、10年ぶりの新作に相応しい、力強く自由奔放な映画だということは、間違いない。

[2008.9.10]