『接吻』 万田邦敏
今どき声高々に「接吻」というと少し恥ずかしげな感じがするが、これを英語にすると"The Kiss"になり、何だか妙に腹の据わったクールを感じさせるのだから不思議だ。"The Kiss"と聞けば、思わず"Kiss me deadly"(『キッスで殺せ』ロバート・オルドリッチ)や"The naked kiss"(『裸のキッス』サミュエル・フラー)などを思い浮かべてしまうが、万田さんの"The Kiss"(『接吻』)は、これらの怪物的な傑作と並べると幾分涼しげな感じがしないこともないが、やはりそれらと双璧の圧倒的な傑作だった。
前回分の『人のセックスを笑うな』で、古典的なキスの演出方法とでもいうようなことをつらつらと書いてしまったが、『接吻』のキスシーンを見ると、もはやキスシーンの演出方法も二十一世紀に突入してしまったのだな、と思わずにはいられなかった(とはいえ、万田さん一人で二十一世紀へ突入!お先に!といった感じだが)。
まずもってジーンズの尻ポケットにハンマーを差し込んだ男が、階段の手すりを不気味なリズムで手懐けながら昇って行く様を見事な縦構図で捉えたファーストショットから、殺人犯と化した豊川悦司が警察に捕まるまでの一連のシークェンスは、ほとんど説明的な台詞を排したまま圧倒的な演出力でぐいぐいわれわれの視線をひきつける。手すりを使った人物描写の演出は、『UNloved』の森口瑶子よろしくで、万田さんの得意技である(市役所から出て来て自転車に乗るところ)。
この「縦構図からフレームイン」というのがみそで、というのは縦構図からフレームインすれば、必然的に人物の背後を捉えることになり(得も言わぬにこやかな笑顔で登場人物が後ろ歩きをしてない限り)、ことにファーストショットや、劇中人物の最初の登場シーンにこの演出を施せば、人物のアイデンティフィケーションに関する一切の意味や説明を宙づりにされた観客の視線は、一瞬にして鷲掴みにされるだろう。そして、このような縦構図を使った人物の背後からの演出(「背中の演出」と言い換えても良い)を得意とするもう一人の監督として真っ先に思い浮かぶのは、溝口健二である。
頼りない記憶によれば、例えば『西鶴一代女』のファーストショットは、遊女になり墜ちた田中絹代を夜の暗闇の中に捉えた縦構図からのフレームインで、キャメラはその後しばらくじっと背後から彼女の行動を捉え続ける。このほとんど「執念深い」とまでに形容できる執拗な視線は溝口独特のものであるが、それとは逆に、万田さんはこのファーストショットから執拗なまでに細やかなショットの連鎖で観客の視線を見事に誘導していく。
豊川悦司が殺人の舞台に選んだ平凡な一戸建てを横構図の移動撮影でフレームインさせるショットから、学校から帰宅した子どもが一度玄関から入った後、恐怖に駆られて飛び出してくるものの犯人に掴まれ、再び家の中に連れ込まれる正面からの後退移動までのショットの流れは、事前に絵コンテどころか台本に割線すら入れなかったということがまるで嘘であるかのように、極めて具体的なショットの連鎖で、何の変哲もない平凡な一軒家を見事に惨劇の舞台に作り替えていた。この辺りの流れは本当に見ていて圧巻としか言いようがなく、恐らくこれらのショットの流れは、撮影中から全て万田さんの頭の中で全て繋がった形としてあったのだろう。こういう言い方をすると語弊があるかもしれないが、これら一連の流れを見ていると、映画は民主主義的なものなどでは決してなく、監督が一番エラいに決まっているのだ、という監督の全能感に満ち溢れている(これは褒め言葉であります!)。
では全編に渡ってこのような調子で映画が進んでいくのかといえばそうでもなく、逮捕劇以降、映画の視線が殺人犯に感情的に移入していく小池栄子に絞られるに連れ、序盤に見ることのできた監督の全能感は身を潜め、次第に殺人犯の国選弁護人である仲村トオルを交えた会話劇へと姿を変えていく。
じつは、ここからこそがこの映画の本当に凄いところなのだが、この『接吻』という映画は、序盤とラストの数分を除いては、概ね人物が喋っている様をいかに演出し、切り取るかということだけに懸けられている。実際、これらの会話のシーンを見ながら一人興奮していたのだが、では一体これらのどこが凄いのかというと、それは中盤から後半にかけて随所に見られる小池栄子と仲村トオルが立ち芝居で会話を交わす場面であった。これらの場面を見ていると、その演出の的確さと有無を言わさぬ説得力に、ひたすら呆気にとられ、やたらと一人で戦慄を覚えた。
二人が初めて出会った裁判所の門の場面に始まり、拘置所の入り口で豊川悦司の兄(篠田三郎)に会いにいくことになる場面での会話、兄と面会後の田園での会話、結婚を報告する室内から階段にかけた場面、スキャンダルが発覚した後の小池栄子が移り住んだアパート前での会話と、この映画の重要な部分はほぼ二人の会話の場面で担われているのだが(これと対に豊川悦司と小池栄子の面会場面が置かれている)、これらのシーンの演出がやたらと凄い。
実は正確には、万田さんにとって、これらの演出は朝飯前だと思われるのだが、これらのシークェンスは、立ち芝居で会話を交わす二人をフルショットくらいで捉える→会話が乗ってきたのでバストショットくらいに寄る→二人の感情に齟齬が生じ始め、ゆえに視線を逸らす(主に小池栄子)→視線を逸らすと、自然に相手の視界から外れようと体が動く→この瞬間の視線のすれ違いを、しっかり二人入れ込みのバストショットで捉える(ここが重要)→視界から完全に外れるタイミングで再びフルショットにカットインアクション→引いたときの二人の位置関係と視線の噛み合なさが画面から直接的に感じられ、観客は二人の冷めた距離感に恐れおののく、という流れで構成されており、この二人の人物の感情的な齟齬を具体的に視覚化する腕前は、まことに心憎いばかりである。
万田さんは、この見事な演出術を恐らく『UNloved』と『ありがとう』の間、「ダムド・ファイル」のシリーズを撮っている頃に身につけたと思われるが、この一連の演出を最も得意とした監督がもう一人おり、それは他でもない成瀬巳喜男である。もちろん、万田さんが成瀬に影響を受けたとか、成瀬の演出を勉強したとか、そういうことはよく分からないが、ともかく成瀬は少なくともサイレント期の『生さぬ仲』ですでにこの演出術を完成させており(それを目にした時、ほんとうに驚いた)、それは遺作である『乱れ雲』にまで見ることのできる(浜三枝と加山雄三の室内での別れの場面など)、まさに成瀬印といえる一貫した作家の署名であった。
そして更に、この『接吻』という映画で突出しているシーンは、ホテルのラウンジのようなところで小池栄子と仲村トオルが豊川悦司の兄である篠田三郎と語り合う場面であり、この不在の豊川悦司の過去を巡って延々と語られる会話を、キャメラをまったく動かさず、外にも出さず、エキストラも使わずの「三無い主義」で見せ切ったここでの演出を見ていると、監督の全能感に支えられていた序盤とは全く異なる息吹がこのシーンに注ぎ込まれており、それは発話している役者の顔をしっかり見せるということ、語られている言葉にとって邪魔なものはすべからく画面から排除することという、顔と言葉へのかなりストロングな信頼関係から生まれる希有な力を感じることができ、この場面において私は完全にノックアウトされた。
また、この映画を「わからない」とする声が時おり聞かれるが、この『接吻』という映画は、人物の台詞で語られていることと、実際の画面の繋がりで語られていることとの乖離が著しく、そのため、ほとんど画面で起こっていることと、台詞で話されていることが別の次元で展開していることからくる、この映画に固有の形式のために起こった不幸だと思う(大雑把に言えば、目で見ていることと、耳から入ってくることの乖離が大きい。だから凄い!)。また、画面から「都市性」や「現代性」が極端なまでに排除されているため、画面そのものは徹底して抽象的に構成されていることもその一因としてあるのかもしれない(個人的には主題をより簡潔に伝えるために取られた演出だと思うので、全然それでOKだと思う)。
台詞だけ拾っていけば、過不足なく、むしろ過剰なまでに全てが説明されているにもかかわらず(極端な例としては、あの決定的な場面で、小池栄子がわざわざ「二人殺さないと死刑にならない」とまで説明してたりする)、映画として見ると理解できない部分があるとするならば、例えば、先にあげたラウンジの場面においても、豊川悦司はこういう奴だったという話はしきりになされるものの、そのことと殺人を犯した動機が因果関係として結びついたり(殺人の動機そのものには一切主眼を置かれていない)、そこで語られたことを実際に検証すべく二人が行動したりはしない(『リング』みたいに)ことが大きいのだろう。
この『接吻』という映画では、語られた台詞の多くは登場人物にとっても、われわれ観客にとっても理解されることのない不可視の領域に留められており、小池栄子の「自殺しそうな女に見られる」発言にしても、そう見られることになった根拠にフラッシュバックすることなど、過去の視覚化もはっきりと避けられている(しかし、幽霊は驚くほど素っ気なく、しっかりと描かれる)。心理や因果関係といった、物語を駆動するバックボーンのほとんどをあえて台詞による語りの領域に押しとどめ、画面は画面で「都市性」や「現代性」といった説明を排しながら、ぐいぐいとわれわれの視線を引きつけていくこの視線と言葉の圧倒的な乖離が、この映画に固有の素晴らしい抽象性と力強さを呼び込んでおり、この映画の「理解」を寄せ付けない大いなる「謎」と、遠藤京子という、誰にも理解されない「狂気の愛」へと一人向かっていく希有な主人公の「謎」、そして類稀なる未曾有の接吻の大きな「謎」と共に、この力強くミステリアスな恋愛映画のもっとも大きな魅力となっている。傑作。