10 あんなに愛しあったのに(エットレ・スコーラ)

 大学の4年生だった、1990年の末から1991年の年明けにかけての自分のメモ帳を見ると、このように記されている。

12月25日 白昼の通り魔
12月27日 ALL ABOUT EVE[イヴの総て] ANASTASIA[追憶] LOVE IS A MANY-SPLENDORED THING[慕情]
12月28日 0課の女・赤い手錠 狂い咲きサンダーロード
12月31日 C'ERAVAMO TANTO AMATI[あんなに愛しあったのに]
1月1日 LES ENFANTS DU PARADIS[天井桟敷の人々]
1月14日 (卒論提出)
1月28日 TO BE OR NOT TO BE[生きるべきか死ぬべきか]

 クリスマスの日に中野武蔵野ホールで『白昼の通り魔』を観ていた。客は少なく、たしか最前列にいたはずだ。ここではなぜか最前列で観ることが習慣となっていた。急に体調がおかしくなった。重い倦怠感に包まれ、呼吸が苦しくなってきた。生まれて初めての症状だ。体の調子がおかしい時に、大島渚の映画はかなりつらい。それでも、ちゃんと最後まで観てから部屋に帰った。
 私は年末年始には必ず帰省をするが、この年は卒論を仕上げるために、珍しく実家への帰省をやめていた。「へえ、卒論ってそんなに大変なものなの」と電話で暢気なことを言う母親を尻目に、日々こたつの中でごっついデスクトップワープロに向かっていた、そんな頃だった。近所の医者に行っても、どういう症状なのか曖昧なことしか言ってくれず、仕方がないので冷たいふとんに入って寝込んだ。ワープロの画面を見ると気分が悪くなってくるので、卒論の仕上げ作業はやむなく中断した。まあ、ほとんど書けてはいるのだから何とかなるだろう、と思いながら。
 それでも惰性というのは恐ろしいもので、その翌々日に三鷹オスカーでハリウッド名作3本立てを観ていたことがメモから分かる。大晦日には、銀座テアトル西友(今の銀座テアトルシネマ)にかかっていたエットレ・スコーラ(昔は「エットーレ・スコラ」と紹介されていたがこれは間違い。「エ」にアクセントを置く)の『あんなに愛しあったのに』(1974年)。イタリア語はできなくても、イタリア映画の原題をまるごと覚えるのは好きだ。フランス語と違ってイタリア語は口に出すと気持ちがよく、明るい気分になるからだ。「チェラヴァーモ・タント・アマティ」。イタリア語の堪能な大学のフランス人の先生にチラシを見せたら「いい題名だね」と言ってくれた。
 映画は、反ファシストのレジスタンスを闘った三人の男と一人の女の、それぞれの戦後を綴った恋愛譚だ。うだつの上がらないコミュニスト、逆玉で金持ちになってしまった弁護士、そして映画評論家になろうと職を捨ててローマへ出てきた教師。三人ともセンチメンタルな野郎で、三人とも一人の女性に惚れた。スコーラの映画は派手さはないがいつも人間味にあふれていて、1970年代以降のイタリア映画では最上級の演出家だと思っている。女は、『暗殺の森』で僕も惚れてしまったステファニア・サンドレッリ。イタリア女優が比較的苦手な私の数少ない例外である。戦後イタリア映画史がうまく重ね合わされていて、登場人物が『甘い生活』のトレビの泉でのロケ撮影に出くわすという贅沢なシーン(本物のフェリーニとマストロヤンニが...)や、テレビの映画クイズに出演した映画評論家志望の男が『自転車泥棒』の問題に詳しく答えすぎて不正解にされてしまう滑稽なシーンが忘れられない。
 感激に打ち震えつつも、部屋に戻ってまた寝込んでいると電話がかかってきた。こんな年の暮れにいったい誰だろう。今は漫画の編集をしている、映画の友人Aくんだった。彼も帰省はしておらず、正月は暇なのだという。『天井桟敷の人々』へ行こうと言うので、だるい体を起こして元日から日比谷シャンテまで出かけた。だがどうやらこの時一気に不調の波が押し寄せたようで、長大な映画がさらに長く感じられ、まるで集中できなかった。あまりに映画をたくさん観ている時期には、いい映画を観れば軽い体調不良ぐらいは治るようになるのだが(嘘ではない)、マルセル・カルネにはそういう効き目はなかったようだ。Aくんにも心配されつつ、帰ってまた横になった。
 そこから約4週間、映画を観ていない。あの時期の私に、それだけ映画鑑賞のインターバルを空けることは異常なことだった。これまた珍しいことだが、アルコールも一切受け付けなくなった。正月明けに、アルバイトをしている塾の冬休み講習をどうにかこなしたが、ほとんど朦朧としていたはずである。随分やせましたね、と他の先生に言われたことは覚えている。中旬に入って、どうにか卒論も形にして、簡易製本で提出はした。一息ついたことになるが、映画館に行く気にはなれなかった。というより、その正月以来、映画館という場所が恐ろしくなっていた。ああ身体がこうなるようじゃ、自分は映画なんて大して好きじゃなかったんだなあ、と思えてきて悲しくなった。快方に向かうとか悪化するとかいった先のことはまるで意識になく、ただその瞬間のだるさに身を任せていた。
 それでも、胃腸が悪いわけではない。どうにか台所に立って、実家から送られてきた餅を雑煮にしてひたすら食った。私の出身地の雑煮はいたってシンプルで、こんな病人にも作れる。雑煮はうまい。雑煮はうまいなあ、と思っているうちに少しずつ元気が出てきた。数日後には、元気をもっと出すためにいい映画は何だろうとまで考えられるようになり、それならコメディしかないという結論が出た。しかしまだまだ弱気だったので、一度観て面白いことを知っている映画しか観られないだろう、と思った。しかも、大きなスクリーンはまだ怖い感じがする。そこで、吉祥寺バウスシアターのジャヴ50でやっていた、エルンスト・ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか』にした。いま思い起こせば、小さいスクリーンの方がいいと思ったのは、生涯でこの時だけかも知れない。上映が終わって、これでどうにかまた映画が観られると思って安堵した。当時のメモは、そこから再び映画の題名が並び始めている。ルノワールの『チャールストン』もまた観ている。ついでに欲が出て、車の免許も取ってしまおうと自動車学校に通い始めたりもした。さて私の病気は、結局何だったのだろう。それは今でも分からない。ただ、毎年実家から送られてくる餅は今でも大好きである。

 なお『あんなに愛しあったのに』の公開にあたって、銀座テアトル西友は、映画の中身にならって「男三人と女一人のグループ」に対する割引を実施していた。冗談みたいだが本当である。まあ少しでも安い方がいいし、映画仲間とどうにかやってみようと画策した。紅一点のKさんは「私、ステファニア・サンドレッリ?」とはしゃいでいたが、結局スケジュールが合わず断念した。この割引で入場した4人組は本当にいたのだろうか? 忘れないために記しておく。

[2008.4.13]