13 雁来紅(鈴木重吉)

 先日ある古書展で、巨匠キャメラマン三浦光雄の遺品だという写真帖を見る機会があった。10冊まとめて箱に入っていて、入札最低価格は100万円だと事前に聞いていたから、購入する気などもともとなかった。しかし古書店の方に伺うと、それでも前よりは値が下がったという。中には豊田四郎『夫婦善哉』の撮影現場のアルバムだってあるのだからどれも貴重な資料には違いないのだが、それでもそんなものが眼中になくなるほど静かに輝いている一冊があった。それは、三浦が修業中の身であった1919年から、撮影技師として一本立ちした松竹蒲田撮影所時代を経て、不二映画、入江ぷろだくしょん、そして東宝に所属した1930年代までの自らの歩みを記録したアルバムである。一通り眺めて、この箱全体の価値の半分以上がこの一冊にあることを直感した。それぞれの写真には、本人によるユーモラスな註がつけられており、浜辺でふざけてラインダンスを踊る6人の男の左から3番目が成瀬巳喜男である、なんてこともすぐに分かるのだった。このアルバムは、ひとりのキャメラマンの青春にして、同時に日本映画の青春そのものだと思った。
 だが、そこにはそれ以上に惹きつけられる写真があった。女優入江たか子が、大きな机の向こうで椅子に腰掛けている一枚である。日活を離れた彼女が、同志たちに支えられて1932年に設立した入江ぷろだくしょんは、日本で最初の女優による独立プロであり、また現代劇専門の独立プロとしてもそれまでに例がなかった。考えてみれば、社長就任時の入江たか子はまだ20歳だ。今と違って、プロダクションは撮影所も持たねばならず、入江ぷろも京都にスタジオを建設している。そんな彼女が、スターとしてではなく社長として被写体になった写真がそこにあった。
 『雁来紅』(1934年)は、そんな入江ぷろの初のオール・トーキー映画だ。久米正雄の書き下ろしを元にしたこのタイトルは「かりそめのくちべに」と読み、前年に解散した不二映画から流れてきた監督鈴木重吉や三浦にとっては新天地での第1作でもある。私がこの映画をどうしても観たいと思ったのは、実は、美貌のスターへの関心からではなかった。映画技術史の研究発表のためにいろいろと文献を読んでいて、この映画が、創立したばかりの富士フイルムの製品(とりあえずポジフィルムのみ)を初めて使用した作品だという記述に出会ったからだ。当時、国策会社として誕生した新参の富士フイルムに対する映画業界の風当たりは強く、日活や松竹などの大手会社は、製品の質が低いだのなんだのと難癖をつけて不買運動を推し進めていた。しかしそんな中で、国産品もいいじゃないか、使ってみようよ、と手を上げたのがこの小さなプロダクションだった。そして、そのキャメラマンが若き三浦光雄だったという事実は、私の中に鮮烈な印象を残した。
 作品自体にもいささか驚かされた。いつ観たのかは憶えていないが、フィルムセンターだったことは間違いない。題名のしっとりした文字面から勝手にメロドラマかと予測していたがさにあらず、いかにも洋学派の鈴木重吉らしく(この人はルイ・リュミエールにも会っている)、ハリウッドから脚本をそのまま移植してきたかのようなロマンティック・コメディだった。台湾の製茶会社の東京支店長である主人公(渡辺篤)が、台湾から社長(汐見洋)の視察を迎えることになって歓迎会の準備に大忙しだが、家ではパーティに飼い犬を連れてゆくかどうかで夫婦喧嘩、妻(入江)は家出してしまう。パーティでは急遽、タイピストのマチ子(伊達里子)に妻を演じてもらうが、そこに現れた本物の妻に社長さんがベタ惚れ...。そんな筋立てだけでも、すでに「日本映画」ではない場所に私たちを連れてゆこうという勢いだった。
 いま現存する『雁来紅』のフィルムは、画面のヌケは悪いし、音声もくぐもって聞き取りにくい。まあ、現存するプリントの画や音がこの程度のクォリティしかない同時期の作品は他にもあるから、それが当時の富士フイルム製品のせいかどうかは分からない。だが、それでも私にはっきりと感じ取れたのは、エルンスト・ルビッチのような魅惑の才はないにせよ、小さなスター・プロだったからこそ鈴木や三浦がこうした恋愛喜劇に正面きって挑むことができ、それが日本映画の刷新につながると期待していたことだろう。軟調のリリカルな画面作りで鳴らした三浦にとって、こういうコメディはうってつけの機会だったはずだ。確かに、蒲田やマキノや、日本映画のあちこちに「青春」はひしめいたはずだが、その中でも入江ぷろのモダニズム志向はこの一本だけでも特筆すべきものに思える。どうみても傑作とは呼べないし、トーキーに慣れていない入江たか子の発声もぎこちない。だが、この愛らしい『雁来紅』は、フィルムストックの選択から映画のスタイルまで、あらゆる"最尖端"に触れることで、日本映画の「青春」をさらに更新しようとする試みだったように思われてならない。
 入江たか子は、1937年に自社を解散してP.C.L.=東宝の専属女優となり、三浦も一緒に引き取られることになるのだが、その直前に公開されたのが成瀬巳喜男の傑作『女人哀愁』である。嫁ぎ先でこまごまと働かされる『女人哀愁』の入江に、社長席に座っていた彼女の姿を、心の中で重ね合わせてみる。自伝によれば、独立プロとはいっても経営的には新興キネマの下請けでしかなかったし、彼女自身が妬まれてゴシップで騒ぎ立てられた。そもそも女優がプロダクションを持ったというだけで溝口健二から徹底的に嫌われた、という逸話も残されている。
 公家の子女として生まれ、20歳で社長になり、ヒット作に恵まれたにもかかわらず25歳で店をたたんだ彼女のことを想うと、不思議な寂寥感に襲われずにはいられない。平坦ではなかっただろうその5年間、彼女はあの机の前で溜息ばかりついていたのではないだろうか。それだからこそ、『雁来紅』の爽やかな野心は忘れられてはならない、と思うのである。

[2008.8.10]