7 黄金の馬車(ジャン・ルノワール)
大学院に行こうか、就職しようか、ぼんやりと迷った。映画三昧の日々の中で、そんなことも考えなければならない時期だった。結局は就職することを選んだ。ひとつには、僕が勉強を続けたところで誰の役にも立たないだろうと思ったから。そして何よりも、もう両親に頼りたくなかった。とにかく自分で収入を得たかった。就職難の時期ではなかったから、月々の給料を得るだけなら選択肢はそれなりにあった。
僕のいた学科は、フランスに関係さえあれば卒業論文はどんなテーマで書いてもよかった。もし進学するなら、好きなフランスの小説家の研究にしようと考えていたのだが、これでお別れなら、やっぱり映画で書こうと話は決まった。それなりの決断ではあったが、映画狂の仲間たちからは「そりゃ当然だろう」という反応しか戻ってこなかった。それなのに、いざ「ジャン・ルノワールで書きたい」と告げると、「なんと大それたことを!」と笑うのだった。
要するに、『フレンチ・カンカン』を観てしまったことが決定的だったのだ。人が踊っているだけで涙が止まらず、しかもその涙は言葉では説明できない。最初から最後まで、高揚感で観る者を包み込んでしまうこの映画に、今も僕は打ちのめされたままである。『大いなる幻影』や『どん底』などのヒューマニズム作品はACTミニシアターで、『のらくら兵』や『牝犬』などの初期作品はフィルムセンターで、そして『獣人』や『恋多き女』はアテネ・フランセ文化センターで観たはずだ。その頃は劇場で『ピクニック』や『素晴しき放浪者』、そして『ゲームの規則』も容易に観られたが、なんと『捕えられた伍長』まで劇場公開していたのだから、まあ機は熟していたのかも知れない。
それでもルノワールのフィルモグラフィーを眺めれば、まだ手の届かない映画がたくさん残っていた。仲間の江角(仮名)と春休みにパリに行こうと決めたのはそのためだ。江角も卒論のテーマはエリック・ロメールにしたい、とこれまた大それたことを言っていて、弥次喜多にはちょうどいい。で、飛行機に乗ってみたのだが、こっちの都合で行ける時期に一か月行っただけなのに、東京では観られないルノワール作品にいくつもスクリーンで出会えた。名画座では平然と『ランジュ氏の犯罪』がかかっていたし、サン・ドニの文化ホールでは『コルドリエ博士の遺言』も観た。パリ郊外のサン・ドニはちょっと不穏な雰囲気のある町だから、人さらいの映画は変にしっくりくる。これがパリなのか。手応えを感じて東京に戻ってみたら、もう大学4年生だった。
それからはビデオ・ハンティングにも精を出した。ここからは人の情けが身にしみる世界だ。『河』では、外国版のビデオのコピーを貸してくれる方が現れた。時々通っていた映画音楽の聖地、渋谷の「すみや」では、70分程度に縮められ、『自由への闘い』なるテキトーな題名に変えられた『この土地は私のもの』のビデオが売られていた。字幕によれば、監督は「ジーン・リノア」。ちったぁ勉強しろや...。RKO映画は末期新東宝と同じで、映画をテレビ版に勝手に短縮して放映していたらしいが、この版では鳩を放つ大切なシーンがカットされていた。それじゃ観たことにならないよ、と後で完全版のビデオを見せてくれる方も現れた。
それでも、大きな問題が残った。『黄金の馬車』がどうしても観られない。来年日本公開との噂も聞こえていたが、それでは卒論の提出に間に合わない。これを観ておかないと、「後期ルノワール映画における男女の三角関係/四角関係の分析」を意図した第3章が書けないのだ。うむむと頭を抱えていた僕に、「『黄金の馬車』は観ていないでしょう。今度試写があるのでどうですか」という指導教官H先生の暖かいお言葉が降り注いだ。どうやら配給会社さんに話を通していただいたらしい。感謝の念を告げて、そのことを江角ほか先生の講義の受講生仲間に報告すると、彼らの言うことは案の定だった。「あのう、例の連中も連れて行ってよろしいでしょうか...」。先生は、短い沈黙の後、どうにか承諾してくれた。
場所は、銀座文化劇場(今のシネスイッチ銀座)の上の階にある試写室だった。いま思えば、フランス語の字幕翻訳の方もいらしていたから、僕らは畏れ多くも字幕のチェック試写の段階で入れていただいたことになる。それなのに、頭の中を沸騰させて、アテネ・フランセの出口でと同じように「クーッ!」「ウォーッ!」と叫んでいる我らバカ学生。あまりにも屈託のないお年頃だったのだ。それでもエレベーターに乗り込み、こんな連中の闖入を許してくれたフランス映画社さんに礼を述べた。その時だった。「この映画は、イタリア語版と英語版もあるの。アンナ・マニャーニが英語をしゃべるのよ!」と見ず知らずの僕に話しかけてくれた女性がいた。川喜多和子さんであった。日本の外国映画配給史の伝説のように思っていた川喜多さんだ。それから3年もしないうちに急逝されるなんて、その時は思いもしなかった。川喜多さんの前では、こうやって興奮しているだけでも自分の存在が許された気がした。僕がお会いできたのは、結局この一度だけだ。
だが、これだけの人々のご好意に甘えても、だからといって良い論文が書けるわけではない、そのことは身にしみて分かった。だから、これで映画について書くのは終わりだ、と思ったのだが...。ルノワールの映画はドラマ(この映画ではむしろコメディア・デラルテか)であると同時に、それぞれの生理をむき出しにした俳優自体の「ドキュメンタリー」でもある。『黄金の馬車』は、単に3つの言語のバージョンがあるのではない。イタリア語版と英語版とは別の芝居であり、つまり『黄金の馬車』とは一つの映画ではないのだ。これぞ贅沢の極みだろう。その英語版には、いまだ出会えていない。