6 日本南極探検(田泉保直)

 小さい頃から、世界の国の首都を暗記して喜んでいるようなガキだった。遊びから帰ってくると、百科辞典の別冊だった分厚いハードカバーの世界地図を毎日のように開いては眺めていた。教えられた中国の人口はまだ8億だったし、薄緑色で塗られたソ連はひたすら大きかった。イエメンはまだ南北二つに分かれていたし、中央アフリカは共和国ではなく「帝国」だった。もっとも、この国を一時支配したバカ皇帝のことを知るのは、それから10年も後のことだが...。そして、世界でいちばん行きたい国はなぜかアイスランドと決めていた。大きくなって映画を観るようになったら、ヴィム・ヴェンダースも同じことを言っていたことを知った。
 世界地図の最後のページに、それはあった。地球儀を逆さに持っても、それはあった。その真っ白に塗りつぶされた大陸にはもともとそれほど関心を抱いていたわけではなかった。児童向けのアムンゼン探検記もスコットの悲劇も一応読んだが、あまり強い印象は残っていない。『復活の日』(1980年)は観られなかった。だが、その頃のテレビっ子が何となく接したように、いくつかの南極にまつわるテレビ番組は観たはずだ。南極には、明るいあっけらかんとしたテレビの画面が良く似合う。太陽光の反射にキラリと輝く氷山の群。ここには動くものがほとんどいない。せいぜいペンギンとアザラシがのたのたと歩き回っているぐらいである。
 わざわざ国の旗を立てに訪れた連中を除けば、人もまるでいない。南極は、誰のものでもない人類共有の土地だとされているから、私有制度はないし、よって財産もない。財産がなければ欲望も育たない。行ったわけではないから断言はできないが、恋愛や友情もほとんどないだろう。幽霊も怪物も住んでいないと推測される。だから、たぶん南極にはどうやってもドラマが成立しない。「タロとジロ」を禁止にして、南極を舞台にドラマのシナリオを書ける人がいたら心から尊敬する(でもなんとなくエーリッヒ・フォン・シュトロハイムなら無理やり映画にできるような気がしてきた...)。ここでは低温科学は確実に前進するだろうが、演劇も成立しないし、詩や文学も生まれないと思う。
 だのにと言うべきか、だからこそと言うべきか、ちゃんと作品化された記録映画としては、南極は実は日本で最初の被写体になっていたのだ。1911年、白瀬矗陸軍中尉率いる南極探検隊は、若い映画キャメラマンを連れていた。当初はそういう発想もなく出発したのだが、シドニーで一行が一冬の足止めを食らっている間に探検隊の後援会長大隈重信がキャメラマン随行の意見に賛同し、その命によりM・パテー商会から派遣されたと文献にはある。呼ばれたのは田泉保直という技師で、選ばれた時はまだ22歳だったという。選ばれたといっても、誰も行きたがらないので、その時いなかった田泉くんにしようとM・パテー社長の梅屋庄吉が勝手に決めたとか。ま、日本近代史を飾る超弩級の豪傑、梅屋なら平気でやりそうなことだ。当時としては巨額であろう1万円の生命保険をかけられ、ワーウィック社の木箱のキャメラ(フィルムセンターの展示室に同型機がある)を携えて田泉くんは船に乗った。
 この『日本南極探検』(1912年)は、フィルムセンターの文化・記録映画の上映企画「フィルムは記録する」で初めて観た。複製に複製を重ねた後のプリントらしく、画像は一貫して鮮明さを欠く。コントラストの強すぎるショットも多く、あらゆる意味でコンディションが悪かったのだろうと想像する。そして、どのショットを見ても、田泉くんの困った顔が目に浮かんだ。はるばる来たのはいいが、どこもかも真っ白で撮るべきものがないのだろう。ペンギンは見つけたが、無理にでも動いてもらうため隊員に往復ビンタをされて、よたよたと倒れている始末。そのうち「ペンギン鳥を捕へつつある隊員」というインタータイトルが出るが、ペンギンの足は案外速いようで、隊員たちは右往左往するばかりで一羽も捕まえられない。なるほど、「捕へつつある」だった...。次に見つかったアザラシは、これまた隊員に棒でつつかれている。この動物は、人間を知らないためか、怖がりさえしないようだ。かくして日本最初の記録映画は、ささやかな"動物虐待映画"としてこの世に生まれ出ることになった。
 結局白瀬隊は、たどりついた平地を「大和雪原」と名づけてヒノマルの旗を立て、万歳三唱して帰国の途についたという。バンザイはしたし、無事に東京港に帰還して盛大な歓迎を受けた。偉大なる後援会長から資金はもらっていたのだろうが、予想外の出費がかさみ白瀬隊長は大量の借金を抱えてしまう。晩年の白瀬は、"わが南極"についての講演会をしながら日本各地を行脚し、借金を必死で返したという。もちろん完成したこの映画のフィルムも携えて...。
 そんなわけで、2006年に「オーストラリア映画祭」を開催した時、約40本もの映画がかかる中で、最も期待していたのは『ダグラス・モーソンのオーストラリア隊による南極探検』(1911-16年)であった。アムンゼン、スコット、白瀬と同じ時期に南極大陸を探検したオーストラリア隊の記録であり、オーストラリア映画史でも、現存する最も古い記録映画とされている。『日本南極探検』に比べると、隊員たちはタバコをくゆらしたり、厳しい寒さの中にもリラックスした仕草を見せている。オーストラリアだって探検ともなれば大金をかけた事業のはずだが、『日本南極探検』と違って国威発揚の雰囲気がほとんど感じられない。だが、観ていると、そのうち一人の隊員がリラックスしすぎたのかとんでもない行為をしていた。彼は大きなアザラシの背中にまたがって遊んでいたのである。アザラシは乗られるのを嫌がって、何とか逃れようと前に進む。それがロデオみたいで隊員はさらに面白がっている。日本人にも思いつかなかった、明るい動物いじめであった。
 だが、さすがに考えさせられたのは、このアザラシ遊びの映像が面白いとはいっても、これが私にとってフィルムで撮られた最も魅力的な南極の映像であっていいのか、という点だ。永遠に映画を拒み続ける誇り高き大陸、南極。どうかいつまでも融けないでいてください。

[2007.10.29]