8 ルイジアナ物語(ロバート・フラハティ)

 1993年、映画の仕事をする前のことだが、ある大型使節団の随行員としてアラブの国々へ出張したことがある。それなりの職務をこなしながら5か国をたった3週間で回るという強行軍、自由時間もあまりなかったが、まあ滅多に行ける場所じゃなし、使節団本体と同じく随行員もビジネスクラスに乗せてもらえると聞いては、それはそれは期待に胸を膨らませて荷造りをしたものだ。
 その最初の訪問国、アラブ首長国連邦(UAE)では、アブダビとドバイというこの国の二大都市を回ることになっていたが、こんな旅先でまさか映画を観ることになるとは思わなかった。ニホンの建設会社が施工したという派手な流線型建築のアブダビ国際空港に到着すると、テレビの海外ニュースに出てくるような、アラビア風の白装束に髭面の男性が両手を広げて私たちを出迎えていた。この土地の王族の方である。われら使節団は他の乗客のように長い列に並んで入国手続きをする必要はなく、彼の導きで別の扉から入れてもらい、気がついてみるともう豪華なVIPルームのソファに通されていた。パスポートの提示を求められたので、差し出すと入国管理官さんが目の前でペタンとスタンプを押してくれた。そして砂糖のたっぷり入ったグラスのお茶をいただくと、私たちはマイクロバスに乗せられ、間もなくゆったりとした50席ぐらいのホールに案内された。いま思えば、IMAGICAの試写室に似ていたかも知れない。係員の方が出てきて、英語で「今から短い映画をご覧いただきます」。え、映画? 何だろう何だろう...。
 飛行機から降りたばかり、時差で少しボーッとしていたかと思う。もう細かいところは覚えていないが、一群の英国人が灼熱の沙漠を行き、汗をかきつつ機械で地面を掘っていたシーンがあったように思う。現在のアブダビの繁栄は彼らの苦労なしには存在しなかっただろう、と。要するにこれは、この地の原油を開発したBP(英国石油)が作らせた劇仕立ての「アブダビ石油開発物語」だったのだ。その10年後、私は「PR映画」というものに並々ならぬ関心を寄せることになるのだが、その時は何の感慨もなく鑑賞を終えた。その後は、これが私にとって最初の「PR映画体験」だと長らく思っていた。
 そこから再びマイクロバスでホテルへ向かう道のりは、私を心の底から驚かせた。炎暑に肌を焼かれるような沙漠のど真ん中だというのに、スプリンクラーの完備された街には緑があふれ、そのすべての樹木の枝葉が美しく整えられていた。ときどき道路の左右に唐突に立っているビルは、キラキラしたガラス張りながらまるでマッチ箱のように見えた。ニホンのような、地震の起きる国では絶対に許可されない造りだろう。自分の視界に開けている風景のすべてが、きらびやかな、それでいて取ってつけたような人工物であった。そんな、オイル・マネーに依存した文字通りの砂上楼閣都市を、20代半ばの青年にはあまりに贅沢なインターコンチネンタル・ホテルのだだっ広い部屋の窓から見下ろした。そして後日、アブダビからドバイに向かう途中、道路脇の広大な土地に、なんとゴルフ場ができているのを目撃した。芝の緑色がこれまた鮮やか極まりない。お得意様はやっぱり日本人商社マンだというが、こんな沙漠でゴルフ場を維持するなんて一体いくら金がかかるのだろう。ああ、あのいにしえの英国人技師たちは、こんな風景を用意するために汗を流したのか...。いまアラブ首長国連邦といえば、ドバイの方が"金満"のイメージが強いようだが、少なくともこの頃のドバイには、港湾都市としての伝統からくるのだろう、人間臭さがアブダビより感じられた。
 だが改めてよく考えてみると、私が観た産業PR映画は少なくともあれが初めてではなかったことに気づいた。学生の頃にアテネ・フランセ文化センターで観たロバート・フラハティの遺作『ルイジアナ物語』(1948年)、あれも石油会社の宣伝映画であったのだ(同時上映はアンソニー・マンの『雷鳴の湾』でこれも舞台は油田。素敵なプログラミングだった)。製作資金を出したのはスタンダード石油。自然と開発の調和を描いてほしいという注文はあったようだが、何しろ、お金は出す、著作権はあなたにあげる、しかも会社のクレジットは一切出さなくてもいい、という極端に寛大なスポンサーだったらしい。だから観ても分からなかったのだ。
 ここに来て、もはやフラハティは「ドキュメンタリー」なんかに拘泥してはいなかった。ルイジアナの湿地帯に住むケイジャン(アメリカ南部のフランス系住民)の少年と、そこへ油田の開発に来た大人たちの無媒介な交流の姿にただ打たれた。特に、ワニも住んでいるあの湿原、少年の広大な「庭」をリチャード・リーコックのキャメラが捉えたロングショットの美しさは、およそ産業映画という言葉には似つかわしくない。『ルイジアナ物語』は、石油が映画を幸せにした数少ない例ではないだろうか。フラハティが、これを残してから世を去ることができたことの幸運は計り知れない。あの突然吹き出てきたルイジアナの油田は、いまどんな姿をしているのだろうか。そして緑のアブダビは、まだあのささやかな「建国史」を嬉々として訪問者たちに見せているだろうか。わが沙漠は緑なりき...。

[2008.1.18]