16 四畳半襖の裏張り(神代辰巳)

 ヨーロッパの大抵の都市が、いやでも醸し出してしまう街路の歴史性を脱色されたような、平板な空間が続くここはロッテルダム。第二次大戦中に市街地が根こそぎ爆撃されて、それゆえ戦後の都市計画の中で斬新な現代建築の花咲く街になったとかいう経緯は、書物上の知識としては知らないではなかった。だが、それにしてもあっけらかんとした町並みだ。市の中心地区などは、自動車が入れないようにさえしていた。そんなところで行われる国際映画祭だから、やはり「進取の気性」でもなければやってられないだろう。毎年1月に開催されるロッテルダム国際映画祭は、2月のベルリン映画祭の前哨戦と位置づけられやすい。規模は中くらいだがインディペンデント映画を積極的に受け入れており、つまりは"棚"の活きのよさが売り物なのだ。
 1996年1月、飛行機の窓から眺める北海の沿岸は白く凍っていた。当時、国際交流基金の映像部門に勤めていた私は、ロッテルダム映画祭のレトロスペクティブ部門「神代辰巳監督特集」の担当者としてこの地に馳せ参じた。前年に逝去した監督の仕事を海外にも認めさせようと、マッシュルーム・カットのY部長が私に与えてくれた任務である。スーツケースには、前日の夜に完成したばかりの監督資料や丸めたポスターがぎっしり。日本国内と同じ文脈で"ロマンポルノ"を理解してもらえるはずはないから、「ロマンポルノとは何か?」を分かりやすく説明した文章まで用意したはずだ。この時に作ったデータは、英語で作られた神代辰巳のフィルモグラフィーとしては今もいちばんの正確さだと自負しているが、もはや原稿がどこにあるのかも定かでない。また、「いずれは世界巡回のための冊子を作るから」という部長の命で高名な評論家の方々に書いていただいた文章は、結局はこのプレス資料の上でしか発表されずに終わり、後に別のところでようやく日の目を見ることになる。このことは今でも残念に思う。
 神代の映画がねっとりと放つ"体臭"がいかにも似合わない街。でも当日の晩から、上映会場のあちらこちらにポスターを貼った。評論家田中千世子さんのコーディネートを得て選定されたのは『一条さゆり 濡れた欲情』(1972年)、『恋人たちは濡れた』(1973年)、『四畳半襖の裏張り』(1973年)、『青春の蹉跌』(1974年)、『赤線玉の井 ぬけられます』(1974年)、『赫い髪の女』(1979年)、『もどり川』(1983年)、『噛む女』(1988年)、『棒の哀しみ』(1994年)の9作品。当時、外務省系の団体としてこうした作品を扱うこと自体がかなりの冒険であったが、この時のY部長は「僕たちは映画のためにやるべき仕事をやっているのだ」という自信に満ちており、おかげで何の不安も覚えずここまで仕事を進めることができた。まだ新作とも言えた『棒の哀しみ』だけはフィルムを借用したが、他はすべてニュープリントを作成、英語字幕をつけた。『もどり川』だけはまだ観ていなかったので、ニュープリントのチェック試写で初めて対面したが、関東大震災をこれだけ本気で表現した映画とはつゆ知らず、そんな大作にあって、萩原健一が発散する異常なほどのテンションにはさらに驚かされた。そして『棒の哀しみ』は製作会社が倒産して権利関係が複雑になっていたところを、プロデューサーだった伊藤秀裕監督ら関係の方々に頭を下げてどうにかプリントを調達していただいた。
 凍った石畳で足を滑らせぬよう注意しながら、一緒に渡航していた荒井晴彦さんや白鳥あかねさんと上映会場を回った。正直なところ、いちばん悔いが残ったのは、資料配布やさまざまな雑務に忙殺されて、観客の反応をじっくり確認する余裕がなかったことだ。オランダの人々はどんな気持ちであの「猥歌」を聴いていたのだろう。ちょっと会場に入ってみたが、当時の日本の映画コードについての解説を読んでなお、陰部を隠す黒マスクやランプシェードの登場に笑いが漏れていた。上映前に、通訳がいるからと思って日本語で解説をしたら、「ちゃんと英語でやるべきよ」と白鳥さんに注意された。確かに、それぐらいのテクストは準備すべきだった。「"ロマンポルノ"ばかり気にしてないで『青春の蹉跌』や『噛む女』も観てください!」だけは英語で話したのだが...。
 3日目だったか、『四畳半襖の裏張り』のポスターが、会場の壁から消えているのに気がついた。ふすまの陰で宮下順子が上半身と大腿をはだけている純和風のデザイン、おそらく日活ロマンポルノのポスター史上もっとも美しいものの一つだ。実はこんなこともあろうかと思って、貼っていたのは日活からお借りしたポスターの現物ではなくカラーコピーであった。白鳥さんは「これはね、名誉の盗難よ」と言い切ってくれた。やはり映画に惚れたお客さんがいたんだな、と私もうなずいた。そして最後の晩、ベルギーからわざわざ来てくれた日本の知人に会っていた最中に私は睡魔の底へ沈没した...。
 映画が自分の長い仕事になるなどとは思ってもみなかったこの頃、私は仕事のやり方も知らず、悔やんだり反省したりの連続だったけれども、ただただ夢中だった。神代のパッケージはこのロッテルダムを皮切りに、イタリアへ、そしてロシアへ旅をした。翌年には『黒薔薇昇天』(1975年)や『悶絶!!どんでん返し』(1977年)までラインアップに加えて世界からの招きを待った。前者の主人公であるピンク映画監督がイマムラやオオシマに嫉妬しているのは絶対にウケると思ったし、後者は誰もが面白さに腰を抜かすだろうという自信があったからだ。だがちょうどその時、私の方がこの団体を離れることになってしまう。何かをやり残した気分がなくはなかったが、その後も海の向こうからやっぱり反応はあり、同僚たちの手でクマシロの旅は続けられた。それから12年。あのフィルムたちはどのくらい擦り切れただろうか。あの映画群の"体臭"は、これからも世界のあらゆるところに撒き散らされなければならない。

[2008.11.15]