12 乾杯!ごきげん野郎(瀬川昌治)

 かつて「瀬川昌治研究会」という集団があった。渥美清の「列車」シリーズやフランキー堺の「旅行」シリーズなどで知られる喜劇監督瀬川昌治の映画を顕揚し、あまねく世に広めようと有志の方々が結成した会だ。主な活動は上映会の開催とコピー印刷の「瀬川昌治通信」の発行で、「通信」は全部で7冊が発行された。

 創刊号(1990年10月30日) 水民健一郎氏による監督論など
 第2号(1990年11月25日) 筒井武文氏による監督論など
 増刊号No.3(1990年11月30日) 谷昌親氏らによる監督論など
 特別号No.4(1990年12月1日) 瀬川監督インタビュー抜粋
 No.5(1991年7月23日) 筒井武文氏による1980年代瀬川昌治論など
 別冊No.1(1991年7月23日) 瀬川昌治フィルモグラフィー(1960~1968)
 別冊SPECIAL号(1992年2月14日) 瀬川昌治フィルモグラフィー(1960~1990)

 いま読み返してみても、外部からの寄稿も含めて、その熱気の強さが心に響いてくる。最後の「SPECIAL号」などは、瀬川映画に関するもっとも正確なフィルモグラフィーとして今なお他の追随を許さない。各冊子の最終ページをよく見ると、この会の正式名称は「瀬川昌治研究会」ではなく、実は「'50年代映画研究会・日本映画部会瀬川班(S集団)」であることが分かる。「'50年代映画研究会」とは、1990年前後、アテネ・フランセ文化センターで度々催されていた1950年代ハリウッド映画の上映会を担った方々である。映画を観始めた私たち若造は、この連続上映会に根こそぎノックアウトされていた。「S集団」とは、もちろんサミュエル・フラーの映画のパロディだ。つまり「セガワ=ショック」なのだ。だのに、この会の存在を知った時点では、私はまだ瀬川作品を一本も観てはいなかった。信頼する映画狂の先輩たちからこれだけアジられて、恥ずかしかったので上映会にはなるべく足を運んだ。「観てないのは恥ずかしい→観に行く」。これがその頃の行動原則の基本だった。
 果たして「セガワ」は紛れもない「ショック」だった。瀬川喜劇は、どこかの監督紹介文に書かれていたような「暖かみにあふれる人情喜劇」では断じてなかった。一体どういう演出をしたら、恋を夢みる"妄想鉄道員"フランキーのとてつもないテンションが引き出せるのか。映画のあちこちで唐突に突き刺さってくる不条理は、監督が崇敬するというビリー・ワイルダーの映画にも見られない性質だろう。筒井武文氏をして「三九本目のルノワール」と書かしめた『喜劇 女の泣きどころ』(1975年)には、1995年の上映会でようやく出会うことができた(ちなみにルノワールの作品は37本。なお38本目のルノワールは神代辰巳『濡れた欲情 特出し21人』とのこと)。私と幾人かの仲間は瀬川研の先人たちに従い、船の舳先にぶら下がるように、遅ればせながら瀬川イストを自称するようになった。
 「通信」の発行日だけを見ると、瀬川研の活動はごく短期間だったかのように感じられるが、実際はその後もメンバーの方々の熱が冷めることはなかった。私だって、今でも瀬川イズムの布教活動を続けているつもりだ。例えば私は、7冊の「通信」を人知れず東京国立近代美術館フィルムセンターの図書室に寄贈した。疑わしいと思うなら、フィルムセンター図書室の図書検索ページで調べてみるといい。これで、瀬川研の活動記録は半永久的に残されることになった。また、そこで上映事業を担当していた時は、適切な企画には瀬川監督の映画を加えることを忘れなかった。それは代表作である「列車」シリーズの幕開けである『喜劇 急行列車』(1967年)だけではない。東映から松竹に移籍して「旅行」シリーズに突入すると、笑いはもっとナンセンスさを増してくる。『喜劇 逆転旅行』(1969年)では、フランキー堺の運動神経の良さがそのまま笑いに転じるほどなのだ。
 さらに2007年の邦画企画「歌謡・ミュージカル映画名作選」では、わが最愛のミュージカル・コメディ『乾杯!ごきげん野郎』(1961年)をついに上映することができた。かつてアテネ・フランセでご覧になった先人の方々や同志も、35mmプリントで観るのは初めてだから、と京橋に駆けつけてくれた。梅宮辰夫たちが演じる鹿児島の養鶏場からやってきた四人組のコーラスグループ「リズムジョーカーズ」は、何とか自分らを売り込もうと、自画自賛のリクエスト葉書を大量に投函したり、エノケン演じる芸能界の大物に口に食べ物を無理やり詰め込んだり、ハチャメチャな攻勢をかける。住み込み先の自動車修理工場のドラム缶の上でで、スターを夢見ながら四人が歌の練習に励むシーンには、ハリウッド・ミュージカルに対する監督の愛情もビビッドに顕れている。だがそんなでたらめなプロモーションも失敗に終わり、四人が故郷へ引っ込もうと列車で帰途に就いた瞬間、日本中のラジオが彼らの歌を流し始める。「♪幸せーは誰でもー、みんなほしいものー♪」。映画のあちこちで耳にしたこの軽やかな歌声(もちろん梅宮らは歌っていない。デュークエイセスによる吹き替え)とともに、結末に向かってひたひたと幸福感が満ちてくる。果たして、上映終了時には会場から拍手が起きた。上映の後、会場にいらした監督から、「みんなと近くで飲みますから」とお誘いを受けたので、残業を急いで片付けた。宴席には音楽・ミュージカル評論家の昌久さん、イベント・プロデューサーの昌昭さんもいらしており、伝説の瀬川三兄弟が揃い踏みとなる華やかな集いだった。後日も、何人かの方から「知らない映画だったから期待しないで観たけど良かったよー」という嬉しい言葉を聞くことができた。
 映画の布教でもっとも大切なことは、折にふれて、知人たちに粘っこく囁き続けることである。陰口を叩かれても、決してへこたれてはならない。よく読めばお分かりだろうが、誰あろうこのウェブサイトの主も瀬川イストとしての一歩を踏み出した一人である。さらに2007年には、瀬川イストの大先輩高崎俊夫さんの尽力により、清流出版から監督の著書「乾杯!ごきげん映画人生」が発行され、今ではインターネット上でも充実した監督インタビューを読むことができる。だが、まだまだ私の努力が足りないことはよく分かっている。いちばんのお手本は、やっぱリズムジョーカーズなのだろうか...。

[2008.6.29]