4 大学は出たけれど(小津安二郎)
世の中には、卒業論文のようなものを書かされる私立高校があると聞いて、それだけで驚いた。しかも、そこで「私は小津安二郎論を書きました」という方に出会って、さらにたまげた。この人は違う世界の人だ、と今でも尊敬している。一方、私の小津安二郎との出会いは...。
大学生になって、田舎から東京へ出てきた。講義はそれなりに出るとして、残った時間にいったい何をしたらいいのかさっぱり分からなかった。初めて情報誌なるものを本屋で買い込み、それをめくった時の心の震えは忘れられない。「これからは毎週『ぴあ』を買わなければならない!」というこっ恥ずかしい文句を日記に残したほどだ。実は、最初のうちから、映画だ、映画だ、と息巻いていたわけではない。小さい子どもの頃から奇妙に教養主義者で、バランスよくいろんなものに触れるべきだ、などと考えていたふしがある。事実、展覧会や演劇や映画やコンサートの情報はどれも僕の目に突き刺さってきた。
「ぴあ」のオフシアター欄で真っ先に目に入ってきたのは、東京国立近代美術館フィルムセンターと早稲田のACTミニシアターであった。いま、ACTのことを語る人はほとんどいなくなってしまったが、ここがある時代、偉大な"映画の教室"であったことはもう少し語られていいだろう。手書きのチラシにびっしり埋め尽くされたフェリーニ、トリュフォー、ベルイマン、チャップリン...。
僕は、京橋にあったフィルムセンターの旧館を知らない世代である。昔から熱心に映画を見てこられた方々にしてみれば、堪えがたいくちばしの黄色さだろう。初めてフィルムセンターに行ったのは、1987年の4月19日(日)だと当時の手帳に書いてある。この頃の上映は、竹橋の美術館本館にあった講堂で行われていて、到着すると、すでに講堂の入口から美術館の窓に沿ってまっすぐな列ができている。開場の時刻まで、コンクリートの上にぺたりと座り込んで待った。映画は『大学は出たけれど』と『落第はしたけれど』。とりあえず小津安二郎が観たかったのだ。
そもそも、無声映画を観るのが初めての経験であった。大学を出てもなかなか就職できなかった昭和初期の世相を反映した『大学は出たけれど』では、若い夫婦の暮らしも一抹の不安さをもって描かれている。それでも映画自体にはあまり暗さはなく、失業中で暇を持て余した夫が妻に「サンデー毎日」の表紙を示すギャグに、場内がどっと沸く。サイレントに慣れていなかったため、まったくの沈黙の中から唐突に笑い声が満ちるのが、自分も一緒に笑っていたのに異様に感じられた。しかし、その異様さに慣れる間もなく、映画はぷっつりと終わってしまう。残存している部分は冒頭の約10分だけ。断片しか残っていない映画を観るのも初めてだった。気になって後に脚本を調べてみたら、この映画はハッピーエンドだった...。
小津に出会い、溝口に出会い、といった短い時期を経てみれば、結局は映画にばかり時間を費やしてしまっていた。落第こそしなかったが、大学生活こそ紛れもない「サンデー毎日」。好きかどうかも分からないことに時間を使うのはやめよう、と考えたのも結局はこの2本に出会ったからかも知れない。その夏には、美術館の横に毎週できる、長い列の一部分をなすことにも慣れ始めていた。