5 すぎ去りし日の...(クロード・ソーテ)

 映画を観ること自体はどこまでも個人的な体験でしかないが、それでも、たった一人で映画という得体の知れぬ「魔物」と付き合い続けることは楽ではない。もちろん映画を好きになるだけなら難しくはない。ただ、長い時間を経た今も映画のことを考えている自分がいるのは、かつて何人もの人たちが、折に触れて私に映画を教えてくれたからだ。その人たちに対して特別何ができるわけでもないけれど、生涯感謝の念は抱き続けるつもりだ。
 大学生になったら、同じクラスの中にその男はいた。長身、色白で切れ長の目つき、少しだけ威圧的な空気をまといながらも、スマートな物腰で上品な関西弁を話した。裕福な家庭で育ったのだろう、いつも服装には気を遣っていた。気づいてみれば、一緒にH先生の映画論の一般教育ゼミに出てみたり、待ち合わせてオールナイトに行ったりした。自分からベラベラしゃべるタイプではなかったが、映画のことになると話は止まらず、帰宅しても深夜まで彼と長電話にふけった。とことん映画の話しかしなかった。今でも互いの家族のことやプライベートなことはほとんど知らない。漠然と映画について知りたいと思っていただけの私にこれ以上の存在はいなかったが、そのことを幸運だと自覚さえできないほど、質量ともに圧倒的な知見が絶えず彼から流れ込んできた。
 フィルムゴーアーとして常に僕より一歩、いや二歩か三歩先を行っていた彼のことだから、時間の使い方は徹底して合理的で、無駄というものが一切なかった。まだ名画座がそれなりに生き延びていたから、とりあえず観ていない旧作上映は可能な限り観ていたようだし、映画音楽のレコード・コレクションもどんどん増えていた。私とて大学の講義とアルバイトさえなければ映画館や自主上映会のハシゴをして暮らしていたわけだが、彼のタフさはそんな私の比ではなかった。土曜の午後から3、4本ハシゴして文芸坐のオールナイトに突入、日曜の午前中は部屋に帰って仮眠し、午後からのっそり起き出してまた2本ぐらい観ていた。しかも、予備校か何かの採点アルバイトをしていて、しばしば徹夜で何百枚もの紙と格闘していたようだ。一度だけ彼の部屋を訪れたことがあるが、とにかくビデオと本とレコードで埋め尽くされていて、レコードの重みで棚板が大きく下にたわんでいたことだけが記憶に残っている。お坊ちゃまで超タフ、得がたいキャラクターだ。
 イタリアという国を好んでいたらしく、自らふざけて「モドローネ公爵」を名乗り(ヴィスコンティ家のことだ)、冬になれば緑・白・赤という三枚のマフラーのどれかを首に巻いて颯爽とアテネ・フランセ文化センターに現れたりした。それでいて照れ屋でもあった。そんな身ぶりに苦笑しないではなかったが、それはそれでサマになるのだから立派である。
 映画をめぐる彼との膨大なおしゃべりの中で、クロード・ソーテという名前が出てきたのはいつ頃だったろうか。イヴ・モンタンが遊園地の建設を夢見るカフェの従業員を演じた『ギャルソン』という映画がちょっとした評判になっていた。私たちは、ヌーヴェルヴァーグでも「カイエ・デュ・シネマ」でもない「普通」の商業フランス映画に潜む豊饒さについて話をしていたのだと思う。「ソーテは、カフェとにわか雨なんや」と彼は言った。「カフェで人が話をするシーンと、サーッとにわか雨が降ってきて人が雨宿りするシーンがいいんだよ」。よく観ているなあと感心した。
 ソーテは恐らく映画の「作家」ではない。むしろ、会話の演出の中からしっとりとエッセンスがにじみ出てくる演出家である。その後、私はソーテの映画は見逃さないようにした。ソーテには犯罪映画もあるが(観ていない)、ある時期からはほとんど成人した男女の恋愛しか描かず、そしてパリ情緒しか描かなかった。いつも中年の男、若い男、そして女がいる。『夕なぎ』もそうだった。ちょうど新作としてダニエル・オートゥイユ主演の『僕と一緒に幾日か』が来ていたので、五反田の二番館へ走った。もちろん、時代はロミー・シュナイダーではなく、『僕と一緒に幾日か』の次作『愛を弾く女』からはエマニュエル・べアールが主演を張っていた。ベアールはジャック・リヴェットの『美しき諍い女』にも驚いたけれど、ちょっとした小品も素敵だった。ソーテではないが『エレベーターを降りて左』なんて映画もあった。脚本の都合上、なぜだか全篇ほとんど下着姿でアパルトマンの窓から出たり入ったりするベアールに、私は快哉を叫んだ。エドゥアール・モリナロの映画に興奮する機会も、もう日本人には与えられないのだろうか。
 ソーテの『すぎ去りし日の...』(1969年)には、映画より先に音楽から出会うことになった。これもその男のおかげだ。彼はもう輸入版のサウンドトラックを持っていた。「いや、デビューでいきなりこの完成度はね...」と彼は言った。ピアノによるメイン・テーマの旋律が、シンプルながらあまりに流麗だった。この映画は、実は作曲家フィリップ・サルドのデビュー作だ、と教えてくれた。サルドの曲はいつも優美なメロディをしっかり主張してくるが、いざ映画の中で聴くとそれが画面の流れを傷つけることはまずない。この映画の主人公、別居中の妻と新しい恋人のどちらを選ぶかで苦悩する中年男を演じたのはミシェル・ピコリ。物語のすべては、交通事故に遭ってしまった彼が、死を迎える瞬間に駆け抜けてゆく過去の思い出、つまり「走馬灯」として語られてゆく。
 サウンドトラックのアルバムの最後、映画の中では新しい恋人役を演じていたロミー・シュナイダーが寂しげに歌う。
Je regarde le soir tomber dans les miroirs, c'est ma vie...(鏡の中に沈む黄昏を眺めています それが私の人生...)
このシャンソン版が収録されているのはアルバムだけで、映画の中では、歌詞をつけて歌われることはない。もちろん輸入版には歌詞カードなどついているはずがない。私たちは、いくら陳腐な歌詞でもいいから絶対に覚えたいと思い、長電話の両サイドでCDを繰り返し再生して歌詞の聞き取りをやった。途中に挟まっているミシェル・ピコリの独白は当時の私たちにはちょっぴり難しかったが、最後の、
Je ne sais plus t'aimer, Helene(エレーヌ、もう君を愛することはできない)
だけは二人ともすぐに分かった。私たちは一体何をやっていたのだろう。
 彼は、大学を出ると映像ソフトの会社に入った。今はもう年賀状のやり取りしかしないが、間違いなく中堅の働きどころのはずだ。そして、なぜか私の方が、紆余曲折の果てに映画について書いたりしゃべったりする仕事をしている。だが、この男ではなく私がそんな仕事をしているのは絶対に間違っているのではないか。そう考えている限り、私は映画に対して幾分の誠実さを維持できるのだと信じている。

[2007.9.24]