9 怒りのキューバ(ミハイル・カラトーゾフ)
「全貌」といえば、三百人劇場の専売特許だった。学生だった私にとって、都営地下鉄の三田線とはここへ行くためだけに存在した路線だ。「ATG映画の全貌」「中国映画の全貌」...。どこかでチラシを見つけると、「またゼンボウだ」と友人たちと苦笑していたものだ。中でもいちばん足を運んだゼンボウは、やっぱり「ソビエト映画の全貌」だったのではないか。革命初期であれ、スターリン期であれ、ソビエト映画だけは他の国と根本的に違う空気が流れているのが分かる。そして1992年、キネカ錦糸町が「マールイ・キノ」と名前を変えてソビエト映画の専門館になった時は心の底からたまげた。この路線は2年ほどしか続かなかったはずだが、日本のミニシアター史でも奇跡に近い出来事だったと思う。
さて、『鶴は翔んでゆく』(1957年、ミハイル・カラトーゾフ監督)は、もともとはシネヴィヴァン六本木の公開作品のはずだが、いったいどの二番館で観たのだったか。ご年配の方には、旧題の『戦争と貞操』の方がなじみが深いようだ。若い男女が手に手を取ってはしゃぐ、誰もいない川べりのきらめき。その横を通り過ぎる散水車が、鶴の群れを眺めていた二人の身体を濡らしてゆく。やがて、男は戦争に取られてしまうが、いつまでも帰らぬ恋人を心配する女の歩みがいつしか疾走に変わってゆくのを、流麗な動きで追うキャメラが鮮烈だ。これは"ソビエト・ヌーヴェルヴァーグ"かも知れないと思った。フランスのヌーヴェルヴァーグのような仲間同士の運動体があったわけではなかろうが、スターリン後のソビエト映画は明らかに芳醇なしずくを世界に向けて垂らしていた。その最大のエッセンスはおそらく撮影術にある。観た瞬間、名前を記憶したくなるキャメラマンというのがいるが、『鶴は翔んでゆく』のセルゲイ・ウルセフスキーがまさにそれだった。悲痛で繊細きわまる青春映画『私は20歳』(1962年製作)のマルガリータ・ピリーヒナ(ソビエト映画界にはカロリーヌ・シャンプティエや芦澤明子よりずっと前に女性キャメラマンがいたのだ)とともに、ウルセフスキーの機敏な"眼"を記憶した。もしスターリンが長生きしていたら、あの恋人たちは川岸を歩くことができただろうか。
2005年の秋、ニューヨークへ行った。仕事の合間に一日だけ休みの日があり、長年ここのジャパン・ソサエティで日本映画の紹介に努めてこられた平野共余子さんが 私ごときにここまで親切に、と思うぐらい丁寧にマンハッタンを案内してくれた。私が連れて行っていただいた所でもっとも感激したのは、尖鋭的なラインアップで知られるDVDメーカー、クライテリオン・コレクションのオフィスだった。ヨーロッパ映画の大型ポスターがオフィスの至るところに貼られ、明るい雰囲気の中、若いスタッフが楽しそうに働いていた。パッケージのデザインも外注ではなく、社内のデザイナーがすべて作っている。Tシャツにジーンズの社長が迎えてくれると、さっそく近くのスタッフが集まって立ち話になる。なんて素敵な職場だろう、と溜息をついていたら、案内役のサラさんがサッと廊下の脇にある扉を開けた。「好きなのを取っていいですよ」。かのクライテリオン・コレクションの在庫が所狭しと並んでいた。ここで何枚取るかは人格が問われるところである。4枚ほどつかんで、ニホン人らしく無意識に深々と頭を下げてしまった。その中には、社内でロシア・ソビエト映画の専門家であるステファニーさんが自分で字幕を翻訳したという『鶴は翔んでゆく』のDVDも入っていた。
そしてこの日、平野さんへの私からの注文は、フィルム・フォーラムで公開されている『怒りのキューバ』(1964年)を観たい、というものだった。カラトーゾフ=ウルセフスキー・コンビのもう一つの最高傑作、と噂だけは聞いていたので、ニューヨークで公開中と知って旅に出る前から興奮していたのだ。今回のプリントは2003年のカンヌ映画祭で公開され、その後フランスのMK2が世界配給した復元版。むかし日本でロシア語の短縮版が公開された時は、誰もがソビエト映画の文脈の中で観ていたのだろうが、これは紛れもないスペイン語版である。
冒頭から、クレジットとともに、熱帯の森や水を滑らかに捉えた航空撮影が始まる。「ソイ、クーバ...(私はキューバ...)」。憂いに満ちた詩の朗読を重ねて、夢幻のような風景が延々と続く。そして、画面は美人コンテストをやっている高級ホテルのてっぺんに切り替わる。キャメラは、司会者や美女たちの脇を通ってもう一段低層の屋上へと降下してゆき、そのまま人々の間を縫い、飲み物を配るバーテンダーの脇を回って、ひとりの女性についてゆく。女性がその先にあるプールの中へ入ってゆくと、キャメラも追随して水中へ没してしまう。あっと息を呑んだ。
また別のシーンでは、バチスタ軍の銃撃に倒れた闘士の棺がハバナの街を練り歩いている。葬列を追うキャメラはアパートメントの幾階ものベランダをなめながら垂直に上昇し、やがて室内の葉巻工場に入ってゆく。老いた工員たちは仕事の手を休めてキューバ国旗をつかみ、もう一つのベランダから国旗を垂らすが、キャメラはそれを追うばかりか、ベランダの先にある中空へとどこまでも前進する。そこに捉えられているのは、大通りを遠ざかってゆく地上の葬列だ。この映画は、このような「あり得ないこと」に満ちている。あたかも「革命とは不可能を可能にすることだ」と宣言しているかのように。
ニューヨーク滞在中はやや時差ボケに悩まされていたが、この映画の141分間だけは、いかなる細部も私を覚醒してやまなかった。平野さんと、これはすごいですね、と顔を見合わせた。この映画は、その数年前にもフランシス・フォード・コッポラとマーティン・スコセッシの提供でアメリカ配給されたことがある。それほどの大物が出てくるほどの傑作、とも言えるが、逆にそんな面々を必要とするほどアメリカではこの映画は正しく評価されにくいのかも知れない。なお、フィルム・フォーラムのさらに素晴らしいところは、この映画についてのドキュメンタリー『シベリアのマンモス(I am Cuba: The Siberian Mammoth)』まで公開していたことだ(時間がなくて観られなかったのが悔しい)。
チェ・ゲバラは、ソ連抜きで新しい社会を作ろうと進言して聞き入れられず、キューバを去った。しかしその直前に完成したこの映画は、ソ連の「雪解け」"ヌーヴェルヴァーグ"と、ロシアにもない革命的スタイルを身にまとい始めた不定形のキューバ映画が、一瞬の激しい恋におちたその蜜月の果実に他ならない。もちろん製作費は政治の力で出たのだろうが、この鮮烈な叙事詩自体は、恐らく莫大な人力と、映画人たちの内在的なパッションからできている。この瞬間、アメリカ支配の過去だけでなく、俗流「社会主義」の陰惨さまで蹴破ってしまう創造性を、実はこの二つの国の映画は秘めていたのだった。
そして、現代の「効率性」からは排除されそうなこうした映画こそ、いまの日本で劇場公開されることが望まれてならない(すでにDVDだけ日本版が出てしまった)。そしてその暁には、あらゆる政治利用をはねのけて、題名を『私はキューバ』としなければならないだろう。