14 ブリキの太鼓(フォルカー・シュレンドルフ)

 高校時代は、出身地とはまた違う、のどかな地方都市に住んでいた。教室の窓から外を見ると、湾の向こうにいつも大きな山が見える。晴れた日曜日には自転車に乗って埋め立て地に向かい、山がもっと大きく見える海岸のテトラポッドの上で、本を読んだり勉強したりしていた。それしかすることがなかったのだ。県立美術館へ行くことも覚えたけれど、頻繁に足を運ぶような場所ではない。そんなある日、若い美術教師のT先生が、美術室にビデオデッキが入ったから何か映画でも観るといい、と生徒たち(男子校である)に伝えてくれた。ビデオ! 何やら神々しい響きがした。まだビデオデッキがどの家庭にでもある時代ではなく、私の周囲でも、新しもの好きな伯父が早々とU-maticビデオを導入したのを例外とすれば、ビデオを所有している人などどこにもいなかった。
 だがその時は、今の自分にそれで何ができるのかが想像もできなかったから、大して興奮もしていなかったはずだ。すべては、滝村(仮名)という同級生が映画になかなか詳しい、という事実を知ってからだ。彼は「フェデリコ・フェリーニ」なるイタリア人も知っていたし、「ジャン=リュック・ゴダール」といういかにもかっこ良さそうな人名も知っていた。その新作は『探偵』というんだ、と誇らしげに教えてくれる滝村を私は見上げた。後には、一緒に市の中心部までイタリア映画『ひまわり』を観に行ったりするようになった。イタリア兵マストロヤンニのいる部隊が敗走するシーンを思い出して、「あのソ連の国旗の出方、笑えるよな」と言う滝村と一緒に笑った。
 もともとあった土地と埋め立て地の境界をまっすぐ南北に走る産業道路。陽の光を遮るものなど何もない、あっけらかんとした路上をトラックが行き交う。自転車にまたがってその脇の歩道を15分ほど北上すると、いつも立ち読みをするだだっ広い本屋があった。大きな駐車場を備えた、田舎の本屋の一つの典型だろう。いつの間にかその書店が、隣にもう一つ建物をオープンし、「レンタルビデオ」なる商売を始めたことを知った。恐る恐る中に入ると、二つのサイズのビデオカセットがまだらに並んでいて、何ともでこぼこな棚だった。大きい方がVHS、小さい方がベータ。ゲージュツの香り高そうな映画は、どちらかといえばベータに多かったように記憶する。その際に、滝村の勧めで借りたのが『ブリキの太鼓』だ。学校へ行くと、広い美術室のなぜか中央にビデオデッキとテレビモニターがあった。その前に何人かの同級生が椅子を出してきて座り、上映が始まった。
 オトナどものだらしない生き方を軽蔑して、3歳で自分の成長を止めることを決意した男の子オスカル、という設定でもう私の精神はやられていた。彼が「キャー」(この叫び声をどう文字にしたらいいのか分からない)と叫ぶと、ホルマリン漬けの標本を詰めたガラス瓶がことごとく破壊される。いま考えてみれば、原作に対していかにも愚直な態度でしかないのだろうが、だからこそ、物語の壮大さに素直に圧倒されたのかも知れない。いま観直したとしても、あの時と同じ感激が得られることは決してないだろう、というよりむしろ、オスカル君のあの奇声に苦笑してしまうような気がする。しかしその時は、自分も成長を止めたる!と決意せんばかりの興奮に包まれていた。そうだ、これからビデオ上映会をやろう、と着想するまでにそれほど時間はかからなかった。だから、17歳でこの映画を観ることは悪いことじゃない、と今は確信している。
 また、産業道路をたらたらと走った。滝村との間で決まった、というか再び彼の推薦によって決まった第2弾は『突然炎のごとく』。私は高校の全教室の黒板の右端に、○月○日(土)午後2時より美術室にてフランソワ・トリュフォー監督「突然炎のごとく」ビデオ上映会を開催します、と書いた。結局美術室に集まったのはせいぜい6人か7人だったと記憶するが、基本的には自分が観られればそれで良かったから、まるで気にしなかった。自分たちだけで観るのがもったいないから、ああやって教室を回ったのだ。さて、恋愛への実感がいくら薄かろうと、背伸びしたい高校男子がこの映画に惚れるのは自然なことだろう。大学に入ったらフランス語を学ぼう、という気持ちがますます高まった。ただ、単なるこじつけに過ぎないが、主演のひとりが「オスカー」・ヴェルナーという名前であることは、意味もなく怖かった(顔も何となく似ていないか)。だがその後、受験の季節がやってくると、上映会の開催はいつしか忘れられた。
 18歳の冬から春へ。大学入学のために上京する私が抱えていたのはギュンター・グラス著「ブリキの太鼓」の文庫本全3冊だった。読んでいると、やっぱりというか、かなり忠実な映画化だったと分かったが、それより驚いたのは、映画化されたのが2冊目の第2部までだったことだ。ここからまだ一冊分の物語が残っていたとは...。でも、その第3部、つまりオスカルが再び成長を始めてからの波乱万丈の人生は、結論から言えば、割愛してよかったと今は思う。
 恐らく1980年代の中頃は、地方都市のスクリーンで最新作以外の映画が観られた最後の時代だろう。テレビの名画劇場でも、そうした映画はどんどん少なくなっていたはずだ。だから、もし美術室にビデオデッキがなかったら、私たちはどうやってトリュフォーやらシュレンドルフやらに出会うことができただろうか。
 それから20数年後、つい最近のことだが、京都で医師をやっているという滝村に久々に会い、昔話に花を咲かせた。日本に帰る前にオーストラリアにいた彼は、日本語の本がある図書室で私の書いた雑誌記事を偶然目にして、帰国後に連絡をしてきたのだった。という経緯から考えるに、映画にまつわる私の最初の恩人は、まずは彼に違いない。だがもう一人を挙げるとするなら、それはT先生だったのかも知れない。無口な優男だったT先生。その都市では画家としても活躍していたというが、やがて白血病に侵され、若くして亡くなってしまったと人づてに聞いていた。滝村と再会を約束して別れてから、先生との短い会話を思い出している。あまりに遅まきながらだが。

[2008.9.10]